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高麗人参余話(11)−東アジアから世界へ

 古代から地中海を中心に栄えてきたヨーロッパでは14世紀に入り地中海の外に目を向けるようになった。スペイン、ポルトガルは中国の絹、インドの胡椒や香料、その他アジアの特産品を求める交易路を開拓、独占するために大航海時代の幕を開けた。西洋人は大航海時代のことをゴールデンエイジ(最盛期)と呼んでいる。この時代、たくさんの宣教師たちが布教のために東アジアの国々にやってきた。また、商人たちもアジアを目指した。

 オランダ人のハメル(Hendrick Hamel)は済州島近海で難破してウリナラで過ごした体験談(1653年8月〜1666年9月)を「朝鮮漂流記」にまとめて書いた。彼はこの本の中で始めて人蔘をヨーロッパに紹介。東洋文庫(平凡社)「イエズス会士中国書簡」(矢沢俊彦編訳)には人蔘についての書簡があり、18世紀初頭の長白山脈中の人蔘について実物大の写生図を載せた観察調査記録を収録している。フランス人イエズス会神父ジャルトゥーは長白山脈の山中で偶然出会った人蔘について関心をもち優れた記録を残している。彼がロンドン王立学会に送った1711年4月12日付書簡では人蔘の生態、薬効と体験談などが綴られている。

 実際、この書簡を見たモントリオール在住のフランス人宣教師ラフィトウ(Fr・Lafitau)は人蔘の写生図をモホク族(Mohawk Indian)に見せて山林から似た植物を採取した。(1716年)ラフィトウの発見以来、北アメリカ産の山蔘が広東参、あるいは洋参という名前で中国に輸出され始め、中国の人参商人がカナダに押しかけるようになった。

 インディアンたちは山蔘を求めて山に入り、毛皮と共に山蔘を取引するようになった。夥しい量の山蔘が中国に送られたが19世紀末には山蔘を採り尽し、姿を消すようになった。しかし、アメリカ人参の薬効は高麗人蔘に及ばないとして安値で取引された。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.8.22]