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〈生涯現役〉 ハンセン病者の魂の軌跡「生きる日、燃ゆる日」を出版−国本衛(李衛)さん

 国立ハンセン病療養所多磨全生園の鬱蒼とした森の小道を抜けて国本衛(李衛)さんの住居を訪ねた。蝉時雨が、真夏に別れを告げるかのように一際、喧騒をかきたてていた。

 李さんは2冊目の著書 「生きる日、燃ゆる日―ハンセン病者の魂の軌跡」を刊行したばかり。その本を一読した時、圧倒され、畏れにも似た感情に襲われて、しばらく声も出せず、立つこともできなかった。

 「生きるに値しない人間として生きてきた。気が遠くなる歳月。…忘れられない家族との別離の悲しみを越えて生きてきた。父の死にも会えず、母の死にも会えず、社会から排除され、社会の裏側の闇の底で、それでもわたしは生きてきた。振り返れば虚しい日々があり、死と向き合う日々があり、気が狂いそうな日々があった」。李さんはこの本の「あとがき」で半生をこう綴っている。

4歳で母と渡日

 李さんは1926年、全羅南道光陽郡の片田舎に生まれた。4歳で母に連れられて、先に渡日していた父を頼って茨城県土浦に移住。日本での朧気な記憶はここから始まる。

 「父は霞が浦航空隊基地の拡張工事を請け負った大きな土木会社の下請けをして、暮らしぶりは良かった。父を頼ってきた同胞たちの面倒もよく見て、慕われていた。同胞愛と義きょう心が強い人だった。ところが、あれだけ順調だった航空隊の仕事を突然止めて、なぜ田舎に引っ込んでしまったのか当時幼くて、分からなかった。父の死後友人たちから、日本の軍備増強に与するのを潔しとせず、あくまでも朝鮮民族として生きるという姿勢を貫いたからだと教えられた」

 植民地時代の苦難の中でも、民族の誇りを失わぬ父とチマ・チョゴリがよく似合う優しい母に愛されたガキ大将の頃。父の部下たちや学校の先生にも可愛がられ、勉学に励んだ。しかし、その先に奈落の底の絶望が待っていようとは、誰も予想できぬことだった。

 41年5月。ハンセン病を発症した李さんは父に連れられて全生病院(多磨全生園の前身)に入院。14歳。入院とは名ばかり、「囚われ人」としての過酷な人生が始まった。反抗者や逃亡者は、草津楽泉園の重監房に「投獄」され、多くの人が「獄死」「凍死」を強いられた。

 病身にもかかわらず、軍隊調の規律のもとで、畑仕事や松根油精製などの強制労働に駆り出された。ハンセン病だけでなく結核その他の病死者が増え、閉ざされた所内では栄養失調や餓死者が続出する凄惨な様相であった。

 李さんも例外ではない。現在もC型肝炎、心臓病、慢性胃炎、自律神経失調症などに苦しみ続ける。それは、「地獄の暗闇」と自ら表現する収容病棟の暮らしがもたらしたものだった。李さんは入所当時をこう振り返る。「食事は朝、うすい味噌汁一杯で、おわんをのぞくと自分の顔が映っていた。みんな自分の顔をのぞき込んでから味噌汁を吸った。昼と夕食はじゃがいもかナスの煮たものが一品だけだった」。

「朝鮮人のくせに」

 48年ハンセン病患者の断種の法制化、53年には終身隔離を規定したらい予防法など患者の人生を蹂躙する悪法が制定されていった。死の影以上に抑圧と取り締まり、隔離政策に怯える日々。李さんの悪夢は実に戦後半世紀以上にもわたった。「医療などどうでもよかったのだ。患者が死に絶えるのを待つ身の毛もよだつ政策だった」

 そんな苦悶の日々。李さんに民族の覚醒を促したのが、50年も前、在日1世の同胞から手渡された1冊の本だった。書名も覚えていないが、内容は鮮明に覚えている。

 「女性パルチザンの話だった。金日成将軍の指導の下で、文盲の民衆一人一人に文字を教え、やがて民族解放闘争に立ち上がる様子を描いた感動的な物語だった。私は激しい衝撃を受け、民族意識を揺さぶられた。朝鮮戦争直後には、同胞患者や日本人たちにも呼び掛けて『祖国復興支援金』の募金をした」

 この体験と死ぬまで息子を案じ、民族を守り抜いた父の姿が李さんの苦難の半生を支えた。全生園で「朝鮮人のくせに」と白眼視されても、人間としての誇り高さ、民族としてのアイデンティティーを失うことはなかった。そして01年、ハンセン病国家賠償請求訴訟原告団の事務局長として、熊本地裁で全面勝訴の判決を勝ち取った。

 その勇気と強さは、奪われた民族を取り戻そうと生涯闘い続ける李さんの強靭で柔軟な人間の精神が育んだものであろう。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.8.30]