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高麗人参余話(12)−日本に渡った贈品

 地理的に近い朝鮮と日本の交流は2000年前に遡り、神秘の霊薬人蔘が日本に渡ったのもその頃と推察される。記録に残るものでは天平11年(739年)に渤海の文王が国書と共に人蔘30斤を聖武天皇に贈ったのが最初である。「続日本紀」には渤海国使は神亀4年(727年)以来、聖武天皇が没した天平勝宝8年(756年)までに3回来日している。また、遣渤海使は2回派遣されているので少なくとも100斤をはるかに超える渤海産の人蔘が日本へ渡ったとされる。その後、朝鮮半島からは、ほぼ継続して日本に高麗人蔘を送り続けていたと見られる。足利時代、室町幕府にやってくる朝鮮の使節団は高麗人蔘を「国交贈品」として持ち来り、日本は「国交回礼品」として銀やさまざまなもので報いた。古代から日本とウリナラの国々とが緊密な関係にあったことは近年、天皇陵などの調査が進み史実として明らかにされつつある。

 長い歴史を通じて人蔘は礼物、あるいは交易品としてウリナラから日本に流入されるが、日本における人蔘の栽培は八代将軍吉宗の時代に始まる。幕府は繰り返し人蔘生根と種子を朝鮮、中国から持ち寄り、栽培を試み、享保14年(1729年)に初めて移植に成功したのが日本での人蔘栽培の始まりとなった。幕府では人蔘の栽培法を公開する一方、種を各大名に分け与え、各藩における財源として全国に人蔘栽培を奨励した。高麗人蔘のことを日本では幕府から下賜された人蔘という意味で御種人蔘という。

 新井白石(1657〜1725 儒学者、政治家)の自伝「折りたく柴の記」の序文に「父が75歳のときに傷寒病(現代のチフス)にかかり、死にそうになった際、独参湯(朝鮮人蔘を煎じた薬)を服用してその病気は癒った」と書いている。巷でも人蔘ブームが起こり、病気の親を助けるために娘を身売りしてまで人蔘を買い求めたという。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.9.4]