〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 女優・文芸峰 |
旅芸人の子 文秀一団長のひきいる劇団「演劇市場」の一行が、次の村へと旅する荷ロバの上で、1人のいたいけな幼女が居眠りしていた。あるいは、ぼろにくるまれて泣きじゃくっていたり、または1人で遊びに興じていた。それが、文芸峰の幼少時代の辛い毎日であった。 姉の華峰は親戚にひきとられ、幼い芸峰は旅役者である不親切な継母のもと、父の劇団と生活をともにしていた。(実母は死別したのか、父と離婚したのか定かでない) 5歳の芸峰は、父に叩かれるのがいやで涙をふきふき、冬の寒い舞台に立って、教えられたとおりの演技をこなした。 父の文秀一は、流浪を重ねながらの「演劇市場」活動を精力的につづけていたが、財政面でやりくりができず、団員が1人去り2人去り、ついには宿賃のかたに小道具類まで皆差し押さえられてしまう羽目となった。ついに父は劇団を解散し、芸峰と後妻をつれて清津(咸北)に行き、刑務所の看守採用試験を受け合格、看守となった。 1922年の夏、尹逢春(のちの映画監督、南朝鮮の映画人協会会長を歴任)が政治犯のかどで清津刑務所に服役していたが、看守の文秀一と知り合い、その後親交を深めるようになったと回想(「名優文芸峰」1972)している。 16歳でデビュー 1920年代当時わが国では、いまだ演劇人や映画人は異邦人のように特異視され、蔑視された。文秀一は開化の新学問に目覚め、朝鮮の新しい芸術を志し、少ない家財を売り払って劇団を結成し、全国を巡演してまわった。今にしてみれば、時代の先駆者であり、情熱的な芸術家であったが、貧困とさげすみの中、辛苦をなめての活動であった。 一時、その活動を中止したが、文秀一はまもなく看守をやめ、また「演劇市場」を再建し、ふたたび演劇界に進出した。芸峰も父にしたがい、継母とともにまた舞台に立った。16歳の時のことである。 ちょうど、日本で豊田四郎、溝口健二、鈴木重吉らから映画監督の修業をしてきた李圭煥監督が、最初の作品「主なき渡し舟」(1932)製作の際、主人公船頭の娘役候補について主演の羅雲奎(「アリラン」1926―の監督、脚本、主役)に相談を持ちかけた。羅雲奎は舞台姿を見たことのある文芸峰を言下に推した。それで彼女の映画界デビューが決まり、現在の大スターの誕生となったのである。 この映画は日本でも評判となり、文芸峰は新聞などで騒がれ一躍有名人となった。李圭煥監督の作品「旅人」(1936)の録音のため日本にやってきた折、文芸峰は混乱をきたすくらいのサイン攻めに合ったという。日本の名だたる女優の水谷八重子が手をとって「文ちゃん」と呼びながら話しかけたというエピソードも残っている。日本語を知らない文芸峰は、どう答えていいやら戸惑い、トイレに駆け込んで泣いてしまったとのことである。幼少の頃から、学校の門をくぐることなく、体系的な勉学の機会に恵まれなかったことが口惜しかったからである。 文芸峰はその後、「アリラン峠」「春香伝」「春風」「薔花紅蓮伝」「新しい出発」「水仙花」等々の主役に抜擢された。 南北映画史上で輝く 基本的に1935年以後はトーキー映画、それ以前は無声映画であるが、1938年映画祭(朝鮮日報社主催)での一般鑑賞者選によるベストテンを見ると、無声映画部門―「アリラン」(1位)、「主なき渡し舟」(2位)、「人生航路」(3位)、「春風」(4位)、トーキー部門―「沈清伝」(1位)、「五夢女」(2位)、「旅人」(3位)、「薔花紅蓮伝」(7位)、「アリラン峠」(9位)となっている。(「韓国映画全史」1969) 朝鮮版「朝鮮映画史」1、2(1978)においても「主なき渡し舟」などは高く評価されている。 夫の林宣奎とともに1948年、ソウルから平壌入りしたのち、周知のとおり、文芸峰は長く人民俳優として映画界のトップで活躍していた。(金学烈、朝鮮大学校講師) ※文芸峰(1916〜1999) ソウルで出生。1920年代、幼少の頃から「演劇市場」劇団の子役、女優。1932年、映画「主なき渡し舟」に初出演。1936年、映画「旅人」録音のため渡日。解放後、朝鮮映画界のトップスタートして活躍。 [朝鮮新報 2003.9.6] |