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山あいの村から−農と食を考える(12)

70年ぶりの東北の冷害と凶作

 地球温暖化が取り沙汰されている最中、日本の東北地方は低温による農作物の被害がひどい。すでに桃や、ぶどうなど、果物のそれが決定的だ。稲はさらにひどく何十年ぶりかの凶作にみまわれつつある。とりわけ標高の高い私の住んでいる山あいの村などはその度合いが著しい。

 5月、6月は暑すぎるほどの天候だったが、7月以降は平年よりも10度以上も低い気温が続いた。8月の下旬から9月に入っても雨ばかりで太陽は顔を出さない。昭和9年(1934年)の冷害のことは今もよくいい伝えられているが、今年はややそれに近いものと高齢者たちはいう。

 果物の場合は品質の低下と重ねて低温のためにその消費が少なく、価格の低迷となって農家を袋叩きのようにいじめつけている。ともするとこれを機にまた農家の農業離れが続出することにならないとも限らない。

 すでに結実するのをあきらめて青い田んぼの水をおとしている人もいる。せめて刈り取り作業は苦労を少なくし、他の仕事をしてかせがねばとの思いからだ。

 稲の冷害は遅延型と障害型のふたつに大別される。遅延型冷害は生育期間の低温により生育が遅延し、登熟温度が確保できず登熟不良となるもの、つまり青立ち、というものだ。一方、障害型冷害というのは感受期、すなわち穂ばらみ期及び出穂開花期の低温によって花粉の発育が不良となり受精しなくなって稔実不能となるものである。

 いずれかの型で昔から東北では「冷害」による凶作はたびたびあったが、科学文明が著しく発展した最近でも、昭和55年と56年、さらに63年といった具合に、間をおかずしてそれがおこっている。

 話によれば、ヨーロッパなどでは暑さのために人も動物もまいっているというが、こうした異常な天候がおこるのは、単なる自然現象、といって片付けてはおけないものがありはしないか、と思えてならない。そしてさらにはこうした現象をコントロール出来るようなことを考えもしないで、武力の競争などばかりに全精力を尽くしている世界の科学者たちや、支配者たちに、私は憤りをおぼえないではいられない。

 しかし一方「冷害」が目の当たりにきていても、昔のような悲観のムードが山あいのこの村にもない。「今年の共済部長はご苦労になる」といった程度で心底困った風ぼうはみえない。共済制度などの社会補償の発達や政策的な思惑があるからでもあるが、しかしそれだけではない。農業に対する生活のウェイトが少なくなって情熱が失われているからである。したがってそれが日本の新しい農業への創造をもむしばんでいるということになりはしないのか。「足りなければどこからでも買える」といったこの思想がまかり通っているけれど、これは甚だ危険なことだ。

 こうした奢りの思いがどこまで続くかなど、そんな心配を私などがなすべきことではないと思いながらもそれでもやっぱり「たべもの」や「作柄」に対する国民の思いの少ないことや、認識の浅さにはこの国の国勢が現れているような気がして、恐ろしくなる。そして国民にもここで50年前の「飢え」の体験をぜひさせてやらねば、とそんな冷たい気にもなる。

 正確な記憶はなくなったが、たしか私が小学校の5年生(昭和21年)のときではなかったかと思う。その年もひどい冷夏で笹に穂が出て、実が成った。そしてそれを笹米というのだと教えられ、学童たちはその実を集めさせられ、それを欠食児童にたべさせたのだ。もちろん各家庭でも獲ってたべた。たしかに澱粉の一種には違いないが、その粉でつくった団子のまずさは今でもよく脳裏に残っている。山あいのこの村の人たちはこのほかにも、松の木の皮の一部を粉にしてもち米と合わせてもちをついて食べたとか、葛の根を掘ってそれから澱粉をとり、団子にしてたべた、という話を聞いている。粟や稗や蜀黍などは私の子どもの頃には「米かぼい」といってたびたび食べたが、50年前、といわずに40年前のこの国の食糧事情というのはそうしたものだったのだ。それが今日「冷害」が目の当たりにきていても平気でいられるというのは、裏から見れば日本の農業にはすでに根がなくなってしまっている、ということだ。

 グローバリズムによって農産物の輸入が年々増加し、この山あいの村に住んでいても和牛のサシ入りの焼肉も食える時代だ。私自身和牛を飼っていてその牛に昔は人間が当然にして食べたもの以上に上質の大麦を与えている。そのたびごとに「これでいいのか」と思いつつも「サシ」の入った牛肉をつくることをする。

 そんななか先日東京からしばらくぶりに郷里にこられた人と食事していてその彼の言は「東京の食べものよりもこの山あいでとれた地物がずっとおいしい」という。それにはたしかな真実味があった。そしてそのことばの中に、私は新しい日本の農業を呼んでいる人がまだいることを知って嬉しくなった。と同時に、こうした都市に住んでいる人たちのその望む声が政治家にも、農家の人たちにもなぜ届かないのだろうかと悔やまれてならない。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.9.19]