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高麗人参余話(13)−天下支配の財宝に

 朝鮮使節の来日は15〜16世紀の室町政権下でも行われ、朝日関係はそれまで概ね平和な通商外交関係が保たれて来た。しかし、豊臣秀吉は1587年九州を平定し、ついで大陸に侵略の矛先を向けた。豊臣秀吉(1536〜98年)は92年朝鮮を侵略したが李舜臣将軍率いる朝鮮の水軍の活躍や民衆の抵抗にあい、戦局は不利となり講和を図ったが不調、97年再度派兵した。前後7年間2度にわたる朝鮮侵略「文禄・慶長の役」である。結局この戦は反侵略に立ち上がった朝鮮人民の挙族的闘争と秀吉の死によって終止符を打つが、ウリナラ全土は荒廃の極みに達し、前時代まで築いてきた両国の良好な友好関係はたちまちにして瓦解した。

 安土桃山時代のキリシタン大名小西行長(〜1600年)は、代々薬種業を営んだ堺の豪商小西隆佐の子で、秀吉の朝鮮侵略では92年文禄の役に加藤清正と共に先陣で出兵した。行長は釜山城の攻撃に当たり、97年「慶長の役」にも加わったが秀吉死去により撤退せざるを得なかった。結局、行長は1600年石田三成と組み、関が原の戦で敗れて捕虜となり、京都六条河原で切られた。

 行長は秀吉の朝鮮侵略にあたり、淀君を通して自分に第一陣を仰せ付けて欲しいと願い出た。「私は若いころ、堺で薬種商売をしていたから、商用で朝鮮の様子も知っているし、対馬の宗義智は私の婿ですから、彼を案内に立てて、是非先陣を承りたい。」と頼み出た。(太閤記)

 戦国時代92年「文禄の役」、堺の薬種問屋の小西家はその頃すでに対馬領主宗氏とむすび、朝鮮半島からの人蔘取引で大きなもうけをあげていた。朝鮮から持ってきた人蔘は小西一族の手を通じて全国に売りさばかれて行った。朝鮮第一陣を願い出た行長の頭の中には、人蔘の原生する大密林が描き出され、それを手に入れることによって、天下支配の財宝を積もうとするほどの夢があったのだろう。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.9.19]