高麗人参余話(14)−カルチャーショック |
江戸時代に入り徳川家康は秀吉の威圧的な外交とは異なり「善隣友好」和平と国交の回復を望んだ。家康はしばしば朝鮮に使者を送り、捕虜3000人を帰国させ朝鮮王の墓を犯したものを戦犯として引き渡す事を条件に慶長10年(1605)和平交渉を成立させた。 一般に江戸時代、唯一の正式な「将軍の外交」として、朝鮮国王より将軍に「信を通じる」使節として遣わされたのが通信使であった。将軍の代替わりの祝賀などの目的で慶長20年(1607年)以来、文化8年(1811年)までの約200年間に20回にわたって通信使は来日した。 家康の努力が実り、呂祐吉、慶暹らの親善使節が渡って来て、2代将軍秀忠に会い、国書と物産を献上したがその中に60斤の人蔘が入っていた。家康の健康を祈って贈ってきたこの人蔘こそが、やがて日本における人蔘栽培のきっかけとなっていく。 朝鮮通信使の来日は、海外事情に乏しかった当時の日本人にとって、異国の文化使節団をまのあたりにするカルチャーショックそのものであった。釜山を船出した一行は対馬、壱岐、筑前藍島、下関を経て瀬戸内海の各港を経て、大阪に上陸して淀川を京都にのぼり、そこから東へは陸路で大垣、熱田、東海道を江戸に入った。大津の先、草津で東海道と中山道の分岐点で中山道を進むと「朝鮮人街道」という朝鮮通信使が通行したことからつけられた道がある。 関が原で勝利した家康が上洛した縁起のよい道で江戸時代には将軍以外諸大名にも通行が許されなかった道で唯一、朝鮮通信使には通行が認められていた。いかに国を挙げて通信使一行を歓迎したかが分かる。 朝鮮通信使の将軍への贈り物はつねに朝鮮人蔘が筆頭をしめていた。さながら人蔘道中でもあった。通信使の行装が豪勢であればあるほど、幕府の供応が華麗であればあるほどそれはとりもなおさず、朝鮮から持ってくる特効薬人蔘への期待になるのであった。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師) [朝鮮新報 2003.9.26] |