〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 革命闘士・朴鎭洪 |
「治安維持法違反」 朴鎭洪は、植民地時代治安維持法にかかり6回に及ぶ検挙、投獄、前科3犯の経歴を持つ女性闘士である。 彼女は許貞淑と同じ咸鏡北道明川市の生まれで、普通学校を卒業した年(1928)両親と共にソウルに移り同徳女高普に入学した。 当時彼女の夢は、無産大衆の階級意識を高め朝鮮の独立に役立つプロレタリア作家になることだった。優れた女性運動家をたくさん輩出したこの学校で、彼女も読書会など秘密組織で活動しながら植民地下の現実に目覚めていった。 彼女が本格的に運動に乗り出したのは、1931年4月頃、京城学生RS協議会(革命協議会)にかかわるようになってからである。6月、校舎新築と保健問題を掲げて展開された同徳女高普のストライキを起こしたリーダーとして、彼女は退学処分を受けることになる。 退学した彼女は学生運動の場から大衆運動の場へと活動領域を移すことになる。そして1931年12月、RS協議会事件容疑で検挙された。証拠不充分で釈放(1933.11)されるまで拘置所での生活は、一緒に検挙された中央高普生パク・プンジクが死亡するほどきびしい拷問と苦しみを強いられた23カ月であった。 出獄した彼女は1934年5月、京城帝大三宅教授事件容疑で相次いで逮捕されるが無罪放免された。当時日本警察は事件が発生するとまずすべての思想犯を逮捕して取り調べたという。 李載裕との夫婦生活 やっと動ける体になった彼女は8月頃から共産主義者、李載裕と連係を持ち彼の連絡員として活動、同居生活に入った。彼女は李載裕の献身的な連絡員として彼の身辺安全に万全を期するばかりか、組織の方針に関しても忠言と助言を惜しまなかった。連絡員はどんな状況にも耐えられる強靱な信念の持ち主でなければならない。その点同志的関係で結ばれた夫婦は警察の監視を避け、活動していく上で現実的で理想的な条件であったに違いない。しかしながら夫婦どちらかが逮捕されると一瞬にして生き別れ、さらに検挙後に伴う拷問と転向工作は出獄後、信念と信頼に基づいた夫婦関係もしくは同志愛を維持するに難しいほど非人間的なものであった。 李載裕との夫婦生活は5カ月ほどで中断される。1935年1月、連絡に出ていった彼女は帰ってこなかった。ひどい拷問とつらい獄中生活の中、彼女は李載裕の息子を産んだ。息子は実家の母が育てることになった。1年6ヵ月の獄中生活で彼女を苦しめたのは、飢えと寒さ、拷問よりも母乳も満足に吸えず死んでいった息子と老いた母への罪責感であったに違いない。 この間、李載裕も逮捕(1936.12)され、彼女が出獄した時大衆運動は沈滞した状況だった。1937年7月、彼女は李観述と連絡を取り活動を再開するが再び検挙され9月、証拠不充分で釈放された。 釈放されたその日から、つづく追跡と弾圧にもめげず組織の復旧、朝鮮共産党再建京城準備グループの拡大、労働組合の建設を目指し精力的に活動した。しかしまたもや検挙、出獄(1939.7)、そして京城コムグループ事件で再び検挙、2年余(1941末〜1944.10)獄中で苦労した。この間李載裕は獄死(1944.10)した。 臨月で馬に乗り 出獄した彼女は活動を開始、金台俊と出会う。彼もまた京城コムグループ事件で服役中老いた母、妻と子供を失う傷手を受けた人で彼女との出会いは尊敬から愛情へと変わっていった。2人は秘密裏に結婚、警察の監視を避け新しい闘いのため死線をくぐり抜け、中国の延安に到着した。 祖国の解放とともに彼女は臨月で馬に乗り、金台俊は歩いて帰国した。途中彼女は出産、担架に載っての道のりだった。 10年間に及ぶ獄中生活、そして出産、旅路の辛苦で健康がすぐれない中彼女はソウルで朝鮮共産党に入党、婦女部などの幹部として活動した。以後共和国に入り第1期最高人民会議(1948.9)代議員として選ばれた。夫、金台俊はソウル警察局に検挙され死刑の判決を受け処刑(1949)された。革命に賭けた女性闘士の険しくも厳しい道のりであった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※ソウル同徳女高普4年(1931)中退(ストライキを起こしたリーダーとして退学処分)。その後労働運動、秘密地下組織の連絡員として活動。1945年4月中国に渡る。解放後ソウルそして共和国で社会運動の幹部として活躍。 [朝鮮新報 2003.9.29] |