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高麗人参余話(15)−江戸市中あげてのブーム

 家康の政策を背景として慶長14年(1609)、対馬領主宗はいち早く正式に幕府の許可を得て、朝鮮との貿易条約を結んだ。その条約は乙酉条約と呼ばれている。対馬藩では藩に朝鮮係を置き、釜山に対馬屋敷を設けて倭館と称し、貿易事務所とした。公式条約に便乗して、密貿易も横行した。

 釜山で船積みされた貨物は大阪堺港に運ばれ、そこにある対馬屋敷の手を経て、港内それぞれの問屋に渡され、江戸をはじめ全国に売りさばかれた。江戸では屋敷売りとして対馬藩が直接自分の江戸屋敷で売りさばいた。問屋売りもあって、薬種問屋が対馬屋敷から大量に買いつけた。延宝2年(1674年)、幕府の援護を受けて、江戸横山町に人蔘座(今で言う人蔘協同組合)が立てられ、人蔘の大流行となった。一般市民にも人蔘が買えるようになった。いつの間にか浪人達が人蔘座に集まるようになり、人蔘を買い占めては病家に売り大儲けをしていた。元禄時代に入ると日本中をあげて、完全に人蔘のとりこになった。人蔘を売る店が、買い手に品切れを伝えると、どうしても売ってくれないならば、この店頭で自殺してやるぞと、刃をのどに突き立てて、ようやく売ってもらったというような事件まで起こってくる。

 上も下も、病めるものも元気なものも、江戸市中をあげて人蔘ブームにとりつかれ、大騒ぎの買い漁りとなった。人蔘湯を買うために娘を売った親も出、人蔘袋を手に入れるために盗みをする者もあった。

 朝鮮から対馬を経由して輸入された人蔘は江戸時代、どの年も1000斤(600キロ)から2000斤の間を往来していた。その他、密貿易による輸入はむしろ多いほどであった。しかし、最盛期の元禄10年(1697)には2500斤も入ってきたものが栽培の始まった享保年間の後半から輸入量が下がり寛延3年(1750)にはわずか32斤になってしまった。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.10.3]