〈女性・仕事・作品〉 49歳で音大入学した声楽家・金桂仙さん |
「勉強をはじめるのに遅いなんてことはない」と笑顔で話すのは、大阪市在住の声楽家、金桂仙さん。 大阪朝高卒業後、大阪朝鮮歌舞団、金剛山歌劇団の歌手として活躍した彼女は、結婚、出産後も舞台で歌を歌い続けた。 10代、20代を歌とともに歩んできた彼女が、心機一転、「子育てに専念しよう」と、退団を決意して大阪に戻ったのは第2児を妊娠したときだった。1人目のときとは違って2人の子供を抱えるようになって「人生の決断を下した」と振り返る。その後約10年間は歌を離れて生活した。ときおり胸の中で頭をもたげる「歌いたい…」という願望を抑えながら…。 そんな彼女に復帰のきっかけを与えたのが、日本で数多くの優秀な声楽家を育て上げたボイストレーニングの権威者である、木下武久氏との出会いだった。「きちんとした発声法を学ぶこと」は、元来彼女の夢でもあった。 知人の紹介を受け、教室を訪ねた金さんは、ボイストレーニングのかたわら養護施設や音楽会などへの出演を重ね、日本の市民の前で歌声を披露した。 同居していた姑の容態が悪化し始めたのは、それから数年経ってのことだった。昼夜もなく病人の介護に当たりながらも2人の確執は続いた。金さんは当時の心境を「姑よりむしろ、私が先に死ぬかもしれない」と思ったほどだと語る。しかし、介護は長く続かなかった。約2年間の「壮絶な闘い」の末、姑は息を引き取った。 そんな最中も諦めず歌を歌い続けた金さんは「歌うことよって、荒んでくる自身の心の安定を保っていたのかもしれない」と話す。 姑の死に直面して、自身の人生を見つめ直すようになっていた金さん。結婚後は、妻として、母として、嫁として、そして飲食店の女将として暮らしてきた。「金桂仙というのはいつも一番最後だった」と苦い笑みを浮かべて見せる。 「今を思えば、つらいとき、自分を支えてくれたのは音楽だった。音楽と向き合おう…」と考えた金さんは、49歳にして音大入学を決心する。「夫からのプレゼントでもあったんです。何か自分がやりたいことをしろと。今思えば亡くなった姑からの贈り物かもしれませんね」。 大阪音楽大学短期大学部声楽科に入学、音楽学部4年制へ編入。卒業後は、同学部専攻科に入学した。学業から離れていた約30年間のブランクを埋めるのはそうたやすいことではなかったはずだ。 昨年12月に行われた卒業オペラ公演には、チマローザの「秘密の結婚」の叔母役で出演。全幕イタリア語の上演を無事こなした。 練習中には歌詞がスムーズに出てこなかったり、イタリア語の歌詞に気を取られるあまり、細かい仕草に気が回らなかったりで、四苦八苦したらしい。でも、そんな「武勇伝」を語る金さんの表情は輝いて見えた。 現在、音楽活動を行うかたわら、音大で授業の助手も務める金さんは、朝高の声楽部出身者や音大出身の若者たちと共に「ウリノレ唱愛会」をつくり、大小さまざまな公演活動も行っている。 金さんのステージ衣装は基本的にはチマ・チョゴリ。「ひとつのこだわりなのかもしれない。チマ・チョゴリを着て、朝鮮の歌を歌い、日本の歌を歌う。そこにはいろんな想いが込められている」と金さんは語る。 朝鮮人として、女性として、さまざまな思いを胸に、金さんは今日も歌い続けている。(金潤順記者) [朝鮮新報 2003.10.6] |