高麗人参余話(16)−8代将軍吉宗の奨励策 |
戦国時代の武将達は戦いに明け暮れながらも健康維持には格別の注意を払っていた。家康は人蔘を常に携帯し常用していたし、戦国時代、秀吉を天下人にして疎まれると引退してしまった黒田官兵衛は茶の湯と朝鮮人蔘の栽培研究に没頭したという。人蔘を日本に移し植えるまでの道のりは遥かに遠かった。 家康のころから日本で栽培の努力はされたが朝鮮人蔘の種子の発芽の難しさはその栽培を拒んだ。 朝鮮人蔘の種は未成熟の状態では播いただけでは芽が出ない。人蔘は7月になると青い果実が赤くなり、熟すと柔らかくなる。この時期に採種して水でもみ洗いするがこの時点での胚は未成熟であるため荒めの川砂と種子を混合し、鉢などにいれ地上に置くなどして、適当な水分と温度と酸素の供給を続ければ成長を続け、9月下旬より10月上旬にかけて胚の膨圧によって割れ目を生ずる。この割れた種を11月上中旬頃に播種すると3月下旬に発根、4月上旬発芽する。このような催芽処理を行い胚の成熟を促し、芽切りした種子は11月に播種し、胚が十分成長していれば翌春に90%以上の発芽率になる。これが分かるには長い時を必要とした。 徳川中興の英主といわれた8代将軍吉宗(1684−1751)は実学を奨励し、その一つとして人蔘の栽培にも積極的な施策を推し進めた。享保14年(1729)に幕府では日光の大出伝左衛門に人蔘生根3本を下賜したところ、これが成功して日本での人蔘栽培の始まりとなった。栽培が可能になると幕府では人蔘の栽培法を公開する一方、元文3年(1738年)には種子を各大名に分け与え、各藩における財源として全国に人蔘栽培を奨励した。幕府から下賜された人蔘という意味で御種人蔘という名前がついた。初めは各藩直営で人蔘が栽培されたが後に、一般農民も栽培し、江戸時代後半には野州、松江、会津地域が人蔘栽培の中心地となった。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師) [朝鮮新報 2003.10.9] |