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山あいの村から−農と食を考える(13)

人間を狂わせる「冷夏」

 「味覚の秋」というが今年はそれが満喫できそうにない。天候の異常は稲など栽培するものだけでなく、自然に育つ山のものまでが不作であるからだ。

 あけびは季節に似合わず早期に熟したが、その形が小さく変形していて、へんに堅くこじれ、煮ても焼いてもふんわりとやわらかにならず特有の味も苦味も薄い。栗も実が大きくならないばかりでなく、しまりがなく、それに虫くいなどがすごく多い。今頃の季節になるとそれを好む妻は、しょっちゅう栗飯を炊くのだが今年はまだ1回しか食べていない。これもやっぱり栗らしいコクがなく甘味も薄いのでおいしくない。

 お盆の頃に松茸を採った人がいる、という異常なことを耳にしたが本番の季節になったらその道の名人たちも「全然とれない」とぼやいている。

 わが家には柿の木もあって稲の取り入れの時期にはたんまりとそれを食べるのが幼い頃からの楽しみの一つだが、これも著しく実が小さくてまともに熟していない。まったく異常としかいいようのない色と形をしている。雨は降らなくとも困るがこうもしょっちゅう降られると植物もみんなおかしくなってしまう。「旱魃に不作なし」といった言葉がこの村にはあるが、山あいの里は「雨」にはことごとく弱いことがよくわかる。

 近年、衛星を活用するなどして天気予報はきめこまかく行われ、いやというほどくり返しくり返しテレビ、ラジオで報じられる。が、それを見聞きしながら私はときおり熱い思いがする。これほどに科学文明が発達しているのなら気象の状況を知らすばかりでなく、雨がほしい時にはそれを降らせ、太陽の顔を出させたいときには、それが出来るようになぜ出来ないのか、と思うからである。昔から百姓たちは太陽のことを「おてんとうさま」と、神以上にあがめたてまつり、私の祖父などは毎朝仏様より先に東の方を向いてパンパンと手をたたき、太陽をおがんでいたものだ。しばらくは私もそんなことも忘れてしまっていたのだが、今年は改めて太陽のありがたさをしみじみと知らされている。

 この頃はその太陽の「力」や、「恵み」というものをあまりにも軽々しく見る社会に、人はみな慣らされてはないか、と思えてならない。家を建てるにしても太陽の光について無頓着な設計をする。そしてそれを「なぜ」と問うと「電燈でいくらでも明るく出来るから」という。したがって「地下」も「地上」も仕事をするには、何の違いもないようなことを平気で言うやつがいる。私はそれが気になって、ある日東京で地下鉄で働く人に「毎日、太陽の光にあたらずにいて、身体の調子がおかしくならないか」と問うたことがある。すると彼は、私を見ておかしなことをいう人がいるものだ、といったふうにして笑っていたことを時おり思い出す。

 電力もいい。しかし、それのために今は水力や風力、それに石油のエネルギーだけでなく原子力エネルギーを使っている。そのことの弊害などをいったい人々は考えたことがあるのだろうか、と言わずにおれない。原子力エネルギーの危険性などをここでとやかく言う気はないが、しかし、そのことのために人の命が危うくなるばかりでなく山の木の手入れが不行き届きになり、荒れている。炭焼きなどもなくなって木が老いてしまい、山にきのこも、山菜も出なくなっていることを、はたして人々は存じているのだろうか。

 この秋はほんとに山の幸には恵まれず、松茸ごはんも、しめじ汁も食べられそうにない。が、せめて山形名物の「いも煮」ぐらいはたんまりと食べ、秋の味覚を楽しみたいものと思っているのだが「天低く、人やせる秋」らしく、その呼び声もいつになく少い。そんななか、いつの日か本紙記者と上野界隈で朝鮮人がやっている焼肉店で焼肉をいただいた時のうまかったことを思い出している。さらに、その時に食べた「キムチ」の味も忘れられない。そろそろわが家の白菜も大根も食べられる。ことのほか今年は、しばらく休耕していた山あいの水田を耕してまいたために、病気にかかることもなく、とてもみごとに成長している。水田には菜大根などを侵す病菌がないからだ。これでもって、キムチを漬け込めば、どんなにかおいしいかと楽しみにしているのだが、残念なことにわが妻は、唐辛子の辛いのが嫌いだといってなかなかキムチを漬けたがらない。ついてはその期待もまたむなしい。

 それにしても、この世の中、天候と同じくますますおかしくなっているみたいだ。農作物の盗難事件が相次いで起こっているではないか。春はさくらんぼ、こんどは米だ。その警戒活動が警察はもちろん、農協なども共にやるといったおかしな情報が盛んに流れているが、私はそのさまを聞き、ひそかに「この国の土でとれた食べ物の価値が世の人たちに、そんなに高く評価されるようになったのか」と喜んではいけない喜びをおぼえたり、しかし一方、泥棒をせねばならない人がこの世に増えていることを憂えたり、悔やんだりしながら、夕餉の食卓でテレビを見ている。さらにまた「冷夏」は、自然のものを狂わせるだけでなく、人間をも狂わせる恐ろしいものと思いつつ、しとしとと降る雨の音を耳にしている。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.10.16]