〈女性・仕事・作品〉 歌人・朴貞花さん |
「拉致・拉致の土砂降りの雨子や孫に 差し出す傘なく生みしを悔やむ」(朝日歌壇02年10月14日) 「五十五年の分断あれど両首脳 車内に語る一つ国語」(同=00.7.16) 朴さんは今でも鮮やかに記憶する。南北首脳会談が実現した6.15のことを。 「テレビに釘づけになり、涙が止めどなく流れて…。それから身内や同胞の誰彼となく電話をかけまくりました。」 「見た? 見た? 見た?」誰もが胸一杯だった。 朝鮮忠清南道生まれの朴さんは金正日総書記と金大中大統領の握手と抱擁を深い感動と涙で見守った。 その突き上げるような喜びは、何に例えようか。それは厳寒の冬に耐えて暮らす北国の人々の春を迎える喜びにも似た感情かも知れない。 99年、還暦を迎え歌集「身世打鈴(しんせたりょん)を出した。ここには畑仕事をしていて着の身着のままで日本に連行されてきた父と家族の苦闘の半生が31文字で綴られ、多くの人々の心を打った。朴さんは2歳の時、強制連行され、常磐炭鉱で働かされていた父のもとへ母や姉とともに呼び寄せられたという。 「呼びよせし今宵のオモニの身世打鈴 釜山より常磐炭鉱に来し日まで」(朝日歌壇賞)。 朴さんは幼い時に日本に来たために中学3年生まで母国語が朝鮮語であることを知らなかったと言う。朝鮮の歴史も知らず、言葉も知らないまま、成長したことに痛恨の思いが胸深く刻まれた。 大人になり、結婚し、わが子の誕生を迎える時に、その思いはもっと、もっと大きく膨らんだ。 朝鮮語を学び、話したい、歴史や文化を知りたいという願望と厳しい生活の狭間で悩み続けた。 その結果、東北地方にあった婚家を子供を連れて去り、上京。「どうしてもわが子を朝鮮学校にやりたくて、それで思いきって家を出ました」。女手一つで2人の子供を民族学校に通学させ、育てあげることは容易なことではなかった。しかし、その願いと苦労の甲斐あって、子供たちは民族教育を受けた伴侶と出会うことができた。そのことが朴さんの人生をより豊かにしたと言う。 朝鮮学校に通う孫たちの生き生きした姿を見ることで、かつて叶わなかった「自分を朝鮮人に育てる」夢も実現、自信と誇りを取り戻した気持ちになったのである。 「強制連行されたることの憤怒 未だ証言拒みアボジは逝きぬ」 強制連行されたことの悔しさを生前、誰にも語らなかった父の恨。それは、在日同胞1世の恨でもある。敗戦後も日本における差別があまりにも過酷だったが故に、生きるために口を閉ざした同胞たちもまた、多いのだ。 朴さんもまた、1世の父と同じように日本で「チョウセンジン」と蔑まれ罵られた体験を持つ。心に受けた深い傷は今も消えることはない。「勉強で100点を取っても笑い者にされた。教師からは朝鮮人はいくら頑張っても、将来教師にも、看護師にもなれない」とダメ押しされて、絶望のあまり、自殺まで考えたこともあった。暗い青春の日々だった。だからこそ朴さんには、父の無念が心に突き刺さるように分かるのだ。 「過去のこと忘れて未来に生きようと 優しき言葉君は日本人」 朴さんは今、公民館や日本の市民集会などに呼ばれて講演に立つ機会も多い。そんな時に知り合った人たちの「親切な言葉」に何度打ちのめされたことか。 いわれない差別と生活苦にあえぎながら、歯をくいしばって生きてきた同胞たち。朴さんの歌にもまた、密造酒、闇米、養豚、煙草巻きなどで生計を支えていた生活史が鮮やかに詠み込まれてきた。 必死に働き、生き抜いた1世たち。その後ろ姿を見つめながら、「自分は何者なのか」を厳しく問いつめて、作品化した日々。 朴さんはこう語る。 「通名を使って日本人と同じように暮らしても、朝鮮人の血はごまかせない。日本の社会で埋もれてしまっても、自分の中に流れる民族の血を感じ、向き合って生きていってほしい」。 同化と帰化の誘惑、無意識の差別に苦しみ抜いた果てに到達した一条の光を求め、朴さんは歌作りに励む。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2003.10.27] |