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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 社会主義女性運動家・許貞淑

 許貞淑は、植民地時代社会主義女性運動家、独立運動家として活動し、解放後には共和国政府の要職に就き、政治家としても活躍した女性である。

 彼女は咸鏡北道明川市で、弁護士の長女として生まれた。父許憲は当時社会主義運動家の弁護に関わった人物で、彼女の家には数多くの運動家が集まった。このような家庭環境が、自然と彼女を社会運動へ向かわせる出発点となったのかもしれない。

 日本留学を終えた彼女は、女子教育協会に入会し因習打破、女子教育の普及などを訴えるが力不足を感じ活動を中断、1921年頃上海へ向かった。

 彼女はここで、夫となる林元根や朴憲永、朱世竹などと出会い社会主義理論に関する書物を体系的に耽読した。これは以後、彼女の活動方向を定める思想的糧となり、女性運動を展開していく上での原動力となった。

 帰国した彼女は、朱世竹、丁七星、鄭鐘鳴、朴元熙らと朝鮮最初の社会主義女性団体である女性同友会の結成に関わり、朝鮮の実情に合った社会主義女性解放論はどうあるべきかを追求し把握するために力を注いだ。東亜日報に秀嘉伊のペンネームで書かれた論文「女性解放は経済的独立が根本」(1924.11)はその結実である。

朝鮮初の女性組織

 この間彼女は、林元根と結婚(1924.夏)、東亜日報記者としても活動しながら金柞伊、朱世竹らと京城女子青年同盟を結成しその執行委員も務めた。

 女性同友会を中心に展開されたこのような彼女の活動は、1926年5月米国留学をきっかけに一時中断される。

 翌年、帰国した彼女は黄信徳、任永信らと共に朝鮮最初の女性運動統一戦線組織である槿友会を組織するために力を合わせた。槿友会は全国70の支部を置き、東京や間島にも組織を拡大していくことになるが、彼女は機関誌「槿友」の発行に積極的に関わっていく。

 「東亜日報」に載せた論文「婦人運動と婦人問題研究―朝鮮女性地位は特殊」(1928.1.3〜5)では、女性問題に関する理論と世界女性運動の起源およびその発展史について紹介しながら朝鮮と世界の女性問題との相違点についても触れている。そして現在朝鮮女性の大多数は、「無教育者である家庭婦人」であり、「その大部分が経済的に無産階級に属する女性」である。こういった現状が「婦人運動を無産階級婦人運動化したのである」として、朝鮮独自の女性解放論の必要性を強調している。

精力的な活動

 やがて彼女は「槿友会事件」(1930、京城女子商業学校の宋桂月が、槿友会の許貞淑の指導を受けていたことからこう呼ばれる)に関連して起訴された。獄中で彼女は3男を出産、肋膜炎をわずらい一時出獄したが再び収監される。このとき許憲も逮捕され父娘が共に獄中生活を強いられた。

 やがて槿友会が日本の弾圧を受け、内部解消論で解体すると中国に渡り、金枓奉、崔昌益らと朝鮮民族革命党で活動、37年に崔昌益と再婚した。以後延安に入り抗日軍政大学を卒業(1940)、八路軍120師団政治指導員(1941)となり朝鮮独立同盟(1942)に参加、朝鮮革命軍政学校教育課長(1945)に就任した。食べる物はトウモロコシ粥、食器は空き缶という生活であった。

 解放後彼女は、ソウルで建国婦女同盟を組織したが、その直後共和国に入り、民主女性同盟、祖国統一民主主義戦線などで要職を歴任し、朝鮮労働党中央委員会の重責も担った。1977年日本社会党の招きで来日したこともあった。

 彼女は70歳を過ぎて外国語を再び学び、88歳にして公式行事に参加するなど息を引き取る直前まで、たゆまぬ向学心とパワフルな行動力で人々を驚かせた。

 歴史の要所で見られる許貞淑の顔、それはまさにどんな時代の荒波にもめげない強い信念、そして理論と実践を兼ねそろえ、モダンな洋服から軍服、チマ・チョゴリへと切り替えのできるすばらしい社会性と順応力ではないだろうか。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※許貞淑(1902〜1991) ソウル培花女子高普を経て日本、中国、米国に留学。「女性同友会」(1924.5)、「槿友会」(1927.5)などで活動。1936年、30代半ばで中国に渡り解放するまで独立運動に参加。解放後には共和国の政界で活躍。

[朝鮮新報 2003.11.17]