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〈女性・仕事・作品〉 キムチ一筋・李連順さん

 一昔前の朝鮮人差別の代名詞と言えば「キムチ臭い」とか、「にんにく臭い」だった。植民地時代はもとより解放後も在日同胞はどれほど悔しい思いを胸に秘めてきただろうか。しかし、今、日本の漬物消費量の3割をキムチが占めるなど、その人気は不動のものとなった。

 昨年末に刊行した「キムチ物語」は、日本で蔑まれ、差別されてきたキムチを、もっとも美味しく、親しまれる漬物に育て上げた在日の朝鮮女性たちの細腕奮闘記でもある。

 著者で「キムチのほし山」の顧問李連順さんは、しみじみと語る。

 「店にキムチを買いに来たお客が『キムチって日本語だと思っていた』と言った時、ビックリ仰天。キムチが嫌われた時代を知る1世たちがこの言葉を聞いたら…。まさに隔世の感があります」

 李さんは今年69歳。美しい装丁の著書には、京都でも評判のキムチを育てあげた献身の半生が温かい筆致で描かれている。

 今春、京都市内のホテルで開かれた出版記念パーティーでは、友人、親せきら約150人がお祝いにかけつけた。その席上あいさつに立った李さんは「長年キムチと向き合い、明け暮れる中で、大勢の人たちと出会い、支えられてきた」とまず感謝の気持ちを述べながら、「ギリギリの貧しさの中でも失わなかった1世の女性たちの明るさやたくましさ、同胞としての禀とした誇らしさが私を強く励ましてくれた」と語った。

 李さんが、この「キムチ物語」を書こうと思い立ったのも、1世たちの苦難の人生の背中を見つめてきたからだ。植民地時代、強制連行や貧しさから逃れるように、着のみ着のままでふろしき包み一つを手にして日本にやってきた1世たち。すでにその多くは不遇のままに世を去った。

 「でも、その貧しさの中で1世たちが残してくれたものは少なくありません。キムチ一つをとっても、日本人がその味を知るきっかけを作ったのは1世たちでした。体一つを資本に、無我夢中で働いて子どもや孫の世代が日本の社会でしっかり生きていく土台を作ったのも1世たちです」

 今から40数年前、オンボロ自転車に飛び乗って、京都市内を東に西へ。まだまだ偏見の強い時代にキムチ訪問販売を思い立って、食品よろず屋さんに体当たりでぶつかる毎日だった。

 「委託でけっこうですから、置いてもらえませんか」

 「ニンニク入ってんのやろ。いらん、いらん、持って帰り」とにべもない応対。

 しかし、あきらめない。持ち前の聡明さとひたむきな努力で乗り越えた。「なかばヤケクソでした。きっと断られるだろうと、覚悟して飛び込みました。ところがなんとある店では『ああ、エエよ。そこへ置いとき。皆、置いといたらエエわ』」 こんな出会いにも恵まれて、味も評判を取り、どんどん売れるようになった。店を構えてしばらく経った頃ある老人が聞かせてくれた話。

 「ワシ、朝鮮人もキムチも大好きなんや。戦前、田舎にいた頃、肺病にかかって、病気がうつるといって共同井戸も使わせてもらえなかったことがあった。それで困って近くの朝鮮人部落の人に事情を話して頼むと『どうぞ、どうぞ、気にせんと使ってや』という返事が帰ってきてなあ。おおらかでいい人たちやなあと思うて、ほんまにありがたかったし、うれしかったわ。それ以来、キムチの味を覚えて、今に至るまでずっと朝鮮人とキムチが好きや」

 李さんの胸を今も熱く満たすとっておきの秘話である。

 「1人で始めたキムチの商売を軌道に乗るようにしたのは、私かもしれないが、その種をまき、花を咲かせてくれたのは、名もない1世たちの人間味あふれる生き方だったと思う。それをどうしても伝えたかったのです」

 出版社にも、日本の若い女性たちから「受難の時代を屈せず、懸命に生きたハルモニたちの生き方に引かれます」という多くの読者カードが寄せられている。著者と読者のもっとも幸運な出会いであろう。

 今、3人の息子が力強い「3本の矢」として、家業を守り立てている。一家そろってクラシックのファン。京都交響楽団の応援もして、キムチは今や京情緒にしっとり溶け込んでいる。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.12.1]