〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 啓もう運動家・崔容信 |
崔容信は、祖国の解放は民族意識の覚せいからという信念に基づき農村啓もう運動に生涯をささげた女性である。 1909年、咸鏡南道徳源郡(現在の元山市)の貧しい家庭に生まれた彼女は、代々正しいことを重んじ、教育熱心な家庭環境の中で、10歳で学校に入学、名門校樓氏女子高普を、伯父の手助けと図書館のアルバイトをして卒業し、樓氏学校の才媛として新聞にも紹介された。 また、彼女は、教会の青年会で会長を務める金学俊にプロポーズを迫られる。彼は、奪われた祖国と民族の現実を直視し、無知と貧困から民族を解放し、富強な国をつくりあげることに生涯をささげようとする、容信の情熱と決心に強く引かれたのである。しかし、彼女はとまどった。富と美ぼうだけを追求する世の中、自分は貧しいうえにあばた顔(天然痘の痕)、ましてや歩もうとする道はいばらの道、妻としてめとってくれる者はいまい、そう決め込んでいたからだ。それでも金学俊の粘り強いプロポーズに彼女の心は動いた。今後もっと勉強して、2人が農村啓もう指導者としての資格を持つまで結婚は留保する、その約束でプロポーズを受け入れた。 校舎の設立 1928年4月、婚約者金学俊は玄海灘を渡り東京大学へ、彼女はソウルの協成女子神学校に進学、ここで黄愛徳に会い影響を受ける。黄愛徳の指導のもと、夏休みを利用した実習は、彼女に農村啓もうの重要性を強く認識させた。 1931年4月、彼女は民族的自尊心を刺激する校長の態度に反対する構内ストライキを主導、懲戒処分を受ける。さらに学費の問題も重なり学業を中断、10月、京畿道水原郡半月面セムコル(現在の安山市)を訪れた。農村を啓もうするため1羽の不死鳥になることを決心したのである。 彼女は礼拝堂を借り、朝鮮語、歴史、算数、それに初歩的な裁縫、手芸、音楽などを午前、午後、夜間に分けて教えた。「女のくせに」、「若い小娘が偉そうに」と剣突を食わすものも多かったが、私心を知らない彼女の姿勢に村人は感動、生徒の数は日に日に増していった。 次は生徒を受け入れる校舎を作ることであった。いろいろな困難を乗り越え学校創設認可願いを提出、ついに許可を獲得した。彼女は1軒1軒訪問し建設基金を集めた。中には「金を握って逃亡するんじゃないのか」と流言飛語を流す者もいた。しかし彼女の熱意に婦人親ぼく会、「求牛契」は長年貯蓄したお金を、富豪で知られたパク・ヨンドクは学園の敷地として1530坪を、廉錫柱は自分の持つ山から材木を提供し理事長にもなってくれた。 若い死に涙の葬列 わら草履に背負子で、石や土を運び塀を巡らし、鉋がけまでする彼女の姿に、村人たちは感嘆、校舎の建設に一丸となって立ちあがった。 1933年1月15日、校舎はついに完工した。彼女は自分で教材を作成し、生徒一人ひとりの素質を育てるための教育に力を注いだ。夜は村の女性たちに朝鮮語、歴史、料理、家庭管理などを教え、ひいては禁酒、禁煙、かけ事、迷信打破など包括的生活改善も推進した。 このような彼女に監視の目は光った。警察に呼び出され耐え難い拷問も受けた。日本の弾圧が増すなか、1934年3月、彼女は1年間の留学を決意、神戸女子神学校に入学したが、3カ月後ひどい脚気病にかかり帰国した。村人たちの希望でセムコルに入った彼女は、再び活動を開始したが、経済的に最悪の危機に陥る。疲労とストレスが重なり化膿腹膜炎で2度の手術を受けた彼女は、1935年1月23日、とうとう帰らぬ人となってしまった。享年26歳の若さであった。 ひつぎから彼女の遺体を引きずり出そうとする金学俊の姿は人々の涙をそそった。彼女の葬儀は社会葬として執り行われた。1000余名の参列者の痛哭でセムコルは涙の海となった。 折しも東亜日報創刊15周年記念公募作品の構想中にあった作家、沈熏が彼女の生涯を新聞記事で知り感激、50日で書き上げ当選した長編小説が「常緑樹」(1935.6)である。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※崔容信(1909〜1935) 元山の樓氏女高普卒業後、ソウルの協成女子神学校に入学。3年のとき校内ストライキを主導、懲戒処分。学費困難などで学業を中断。京畿道水原郡半月面セムコル(現在の安山市)で3年3カ月農村啓もう運動を展開。 [朝鮮新報 2003.12.8] |