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〈朝鮮学校草創期描いたミュージカル「ミレ」〉 「蘇るあの日」の熱気とエネルギー

「朝鮮学校」で学ぶ喜びをからだ全体で表すミレ

 在日同胞の「懐かしい故郷」―それは、民族学校の学び舎であり、庭である。

 文化を否定され、民族の尊厳を否定された者たちにとって、自らのアイデンティティー、自らの「文化」、自らの「伝統」というものの持つ意味はとてつもなく重要である。朝鮮人が日本という過酷な環境のなかで生き抜くための誇りや抵抗の力。それを育み、培ってきた場こそ、朝鮮学校である。

 大阪で同胞たちが作り上げたミュージカル「ミレ」は、何よりもそのことを映し出していた。

 民族教育を抹殺、抹消させるための日本当局の執ように続く弾圧。それをそのつど跳ね返した不屈の精神と抵抗。舞台は闘う同胞群像を生き生きと形象し、多くの観客の圧倒的な感動を呼び起こした。

 ミュージカル初挑戦の文友平さん(64)は 総連大阪生野西支部副委員長。ほぼ2カ月間に及ぶ練習期間中、毎日1時間ほどテープを聞いて、自らの持ち歌6曲以外の全部の歌を覚えた。

 「でも、いつも同じ歌の箇所で涙を押さえられない。『同胞ヨロブン集まろう/話しあおうみんなのこと/生きること祖国のこと/そしてこどもたちの未来』。解放後のあの日の熱気、同胞たちが体を張って民族教育を守ってきた歴史を思い起こすからだ」

 文さんの歩んだ道も民族教育の苦難と重なるのだ。解放後すぐ鶴橋に朝鮮学校が造られ、文さんは胸膨らませて学校に通った。しかし、48年、米占領軍(GHQ)は日本政府をそそのかし、東京、大阪、神戸地方の朝鮮学校に襲いかかった。「私の学校にもやってきた。警官に殴られた若い女教師の顔が腫れ上がったのを今でも記憶している。そして、その先生は卵を顔に塗って、声をからして『弾圧やめよ』と叫び続けていた」。小学校2年のことだった。その後学校が閉鎖され、東京荒川の朝鮮学校に5年生まで在学。そして、東京朝鮮中学校に入学。まもなく大阪に戻り、西今里中学に3年通った後、大阪朝高に入学した。弾圧の嵐の中で実にめまぐるしい学生時代を余儀なくされたのだった。

たとえ雨もりしても何にも代えがたい大切な「私たちの学校」

 その遠い日のできごとがミュージカルの場面ごとに鮮やかに蘇ったという。まさに「記憶の再生」である。

 卒業後、10年体験した朝鮮学校の教員生活を「朝鮮の言葉と文字を子どもたちに教え、ただ自分が信じる道を歩んできた誇らしく輝く日々」だったと振り返る。この日の舞台には孫の大阪朝鮮第4初級学校5年の文伊瑟ちゃん(11)も出演した。

 「苦しかった時代もあった。それでも同胞たちは笑顔で闘い抜いた。それは未来を信じていたから。孫の世代と舞台に立つのは、しんどい面もあったが、彼らこそ、1世たちの思い描いた未来そのものだと思ったら、泣けて仕方なかった」

 ミュージカルの命ともいうべき音楽。舞台の全40曲を作曲し、編曲も手掛けたのは尹英蘭さん(26)。大阪朝高を卒業し、大阪音大短大ピアノ科を卒業後、母校の北大阪初中に戻り4年間、音楽講師を務め、今年から京都教育大音楽科3回生として、作曲を学ぶ。周囲の人たちは「若い感性で深みが要求される音楽を作り上げてくれた。すばらしい才能の持ち主」と同胞社会が育んだ若き音学家の誕生を心から喜ぶ。

 尹さんにとって短期間の間に40曲も作ることは平坦な道ではなかったが、「与えられたチャンスを最大限に生かす」ため、昼夜を分かたずがんばった。「これまで演劇は演劇として、音楽は音楽として、舞踊は舞踊として別々に存在していたジャンルを一つにするミュージカルをぜひやりたかった。そして、その可能性は私たちの同胞社会にこそあると思った」という。その確信は高校まで朝鮮学校に通った体験に根ざす。

 「初中時代の音楽の恩師韓伽倻先生が舞台に立たれている。韓先生に音楽の喜び、楽しさを教わった。ピアノも上手な美しい韓先生の姿は私たちの憧れだった。もし、先生がいらっしゃらなかったら、今の私はありえなかった」

 尹さんにとって、朝鮮学校ほど学校行事などを通して音楽が日常的に溢れている場所はなかったと語る。「いつも新しい歌を歌うのが楽しみだった。大好きだった『落葉』(金正守作詞)という歌をよく口ずさんだものです」。その下地があればこそ、ほとんどが素人の出演者がこんなにも水準の高い舞台を作ることができたと感激する。

 「同じ大学の日本の友人たちも編曲を手伝ってくれ、適切な助言をもらった。彼らは民族教育を知らなかったが、今回の舞台を『本当にうらやましい』と語り、同じ音楽仲間として大学でもチラシを配って、私の背中を押してくれた」

 尹さんはこの舞台で出会った子どもたち、日本の友人たち…みんな私の宝ものだと語りながら、こんな重要な役割を与えてくれた同胞組織と同胞たちのためにこれからも素敵な音楽を作りたいと語った。(粉)

[朝鮮新報 2003.12.9]