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山あいの村から−農と食を考える(15)

男たちで作る師走のご馳走

 師走ともなれば心せわしくなる。借金があって、その返済が迫っている、などというわけでもないが、年内に片付けなければならない用件が多いことはたしかだ。

 とりわけ、この集落には徳川時代から続いている「契約」という行事があって、それが大仕事の一つでもある。

 以前は、いわゆる部落、すなわち「村」の総会だけだったが、この集落の共有する山林50ヘクタールほどのものが「所有権の近代化」という法律のもとで「生産森林組合」と呼ぶ法人組合が組織され、それの定期総会を行わなければならず、その事務処理があれこれとあるもんで、手と時間がその方にかなりとられる。

 私の「元屋敷」という部落では、その生産森林組合と「部落会」の代表、つまり組合長と会長は兼ねることになっていて、それを私が任じられている。だから、自分では事務的な仕事はしないにしても、やっぱり気はせわしく働く。

 さてその「契約」だが、事務的には複雑なことが多くなったけれど、行事としての内容は昔と比べていたって簡素化された。昔は「村」だけでなく、「家」にとっても「個人の生活」にとっても1年をしめくくる一大事なものだった。部落の組織には、いわゆる一家の主人によってつくられている「組」というのがあり、さらに「若者組」と称するいわば今日でいう「青年部にあたるもの」があった。そしてそれぞれに3日間にわたって会議を開いたり、酒を飲んだり、「祭文」というのを催したりして娯楽的行事も行うなど、たいへんな村行事だったのである。

 15歳になれば、一人前の男とみなすといった掟があって人足などでは、十分の働きをするものとみなすということがあって、それゆえに高等科2年、すなわち今の中学校2年生になれば、学校を休んでこの若者組の契約という行事に出席して、小若い衆≠ニ呼ばれ、酒をのまされたり、皿洗いなどもさせられたものだ。

 また年季奉公に出されていた若者たちも、その期限があけて家にもどるといったこともあり、厳しい仕つけの行事でありながらも、一方解放される3日間でもあったのである。

 さて、それがたった1日で終されるようになった。しかしそうであっても、他の集落などと比べればまだこみいっている方だ。午前中には部落会の総会をやり、午後には生産森林組合の総会をやるから丸1日かけるということ。そしてようやく夕方になっての宴会だ。

 この宴会がまた他の集落よりも「昔」に近い方法でやっている。甲組と乙組に分かれていてそれが1年交替で手方となって料理をつくり客方の人にご馳走する。もちろん客方の接待が終わったあとに手方の方も宴会をする。

 献立は例えにしたがって手方の人たちがする。最近は鯉の煮付けとアライを出すのが常になったが、ほかに大根えりだとか、きんぴら牛蒡、白菜のおひたし、それに漬け物などなど、みんな男たちの手でつくって馳走する。そして何といっても主たるご馳走は「餅」だ。千本杵で歌に合わせてそれをつく。

 「鬼が餅つきや閻魔がはやす」とか、「揃った揃った、稲の出穂よりまだ揃った」とかと。

 私は鬼が餅をついて、それを閻魔大王がどうしてはやすのか、そのわけはわからないが、とにかく「契約」という行事の3日間は、封建社会においては、単なる事務的なことをしめくくるものだけではなくて、農民が解放感にひたれるものであったことがこうした歌からも思い知らされる。しかし、一方「世話人」と呼ばれる役員は、羽織袴で上段の方に居て威張っていたのだとも聞く。今はそれがまるでひっくり返り役員は小間使いに等しいものだ。思えばその善悪はとにかく世も村も変わり果てたのだ。

 さて、契約のメインである「餅」のことだが、手がかかり、やっかいだからやめたら…との声が高くいわれたこともあった。しかし、論争の結果がんとしてそれを続けている。そしてこの頃は逆に「この伝統を消すな」の声さえ高い。私はもちろん、会長としてこの餅つきを守ることに声を高くしてきた。まだこの席に関係機関の人を招待するのだが、その人たちも(元屋敷の契約にいくと餅をご馳走になれるのが楽しみだ)というほどにもなっている。だからもう「やめろ」の声も出せる状況ではなくなっている。

 アンコロ餅に納豆餅、雑煮餅にくるみ餅などがつくられるのだが、その中で、納豆にネギをきざんで入れ、それにナンバン粉(唐がらし)を加えたものが一番人気がいい。腹いっぱいになっても、これならばさらに3つぐらいはぺろりと食べられる、というもの。しかし、それでも昔は1人5合の糯米を準備したというが、いまは2合でも食べきらない。それで余った餅は来賓へ「お土産」として差し上げて喜ばれるというもの。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.12.19]