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高麗人参余話(24)−栽培の始まり

 高麗人蔘の自生地であるウリナラではいつごろからどこの地域で誰により栽培が始まったのだろうか。はっきりした資料が見当たらないのである。

 高麗時代末期、元の度重なる要請や王室の需要に充てるばかりか北京や日本に売るために人蔘は乱獲され続け山から山蔘が消えていった。人蔘産地の百姓は官の過酷な割当量を調達できなくなり故郷を後にせざるを得なかった。人蔘の需要は高まるばかりなのに供給ができなくなり、人蔘にあらゆる材料を混入させ人蔘10斤を20斤に、100斤を200斤に造りなおす「偽造人蔘製造事件」まで起きてくる。この困難な時期を背景に高麗時代末期から人蔘栽培の模索が始まったと見られる。初めはシンマニたちが山養蔘を育て、さらにその経験を活かして平地に移り栽培技術を模索していったのだろう。

 「中京誌」には粛宗大王(1675〜1720)の時代に全羅南道同福縣のある女性が山蔘の種を畑にまき栽培に成功したという記述が見られる。また、「朝鮮王朝実録」には粛宗45年(1710)頃に人蔘栽培を生業にする人たちの事が書かれている。以降18世紀後半には人蔘栽培が旺盛だった慶尚道や江原道から中央の「内医院」に上納された人蔘はほとんどが栽培人蔘である家蔘であったとされ、希薄になりより貴重になった人蔘を人々が競って栽培するのが風俗になったと書かれている。さらに「正祖実録」によると英祖大王(1725〜1776)の時期には松都開城で大規模な日覆式蔘営農が行われていたと記されている。正祖時代の徐有(ソユグ1764〜1845年)が著述した「林園十六誌」には家蔘栽培法についての記述があり、憲宗1年(1835年)には開城の行商人であった崔文(チェムン)が全国の人蔘耕作地を見て帰った後、開城の風土に会う人蔘の集約栽培法を考案したという。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.12.26]