top_rogo.gif (16396 bytes)

〈手記−体連50年史-1-〉 祖国光復と同胞スポーツ

 人々が抑圧から解放され、誇りを取り戻した時、とてつもないエネルギーを発するものだ。

 今年、在日本朝鮮人体育連合会(体連)が結成50周年を迎えるにあたって、1945年8月15日、祖国光復直後の在日同胞のスポーツ状況を調べながら、つくづくと私が実感したことである。

優勝者に大きな豚一匹

解放後、過酷な抑圧と差別から解き放たれた在日同胞は、各地でスポーツ活動を盛んに行った(大阪市岡グランドでの在日朝鮮人学校全国体育祝典)

 8.15光復直後、同胞たちが何よりも先に取り組んだのは、奪われた言葉と歴史を取り戻す運動であった。それは怒涛のような勢いをもった運動であった。

 同胞たちは、資金も校舎もなく教員もいない困難を乗り越えて、日本各地に500余の学校やウリマル(国語)講習所を開き、6万余人の生徒に民族教育を施した。 

 過酷な抑圧、差別から解き放たれた在日同胞社会のスポーツ活動もまた、堰を切ったように盛んに広がっていった。 

 在日朝鮮同胞の権利擁護と、新しい祖国建設をめざして結成された在日本朝鮮人聯盟(朝聯)傘下に朝鮮体育協会、体育クラブなどが組織され、各地に創られた民族学校を中心に体育、スポーツは盛り上がっていく。 

 当時、小学生だった私は、兄に連れられてサッカーの試合を何度か見にいった記憶があるが、解放を喜ぶ同胞がグラウンドを取り囲み祭りのような雰囲気であった。

 ときたま、朝鮮相撲のシルム場に出くわしたが、ひいき選手を応援するやんやの喝采で興奮のるつぼと化し、大きな生きた豚一匹が優勝者に贈られたのには、本当に驚いた。

2万余人参加の大運動会

シルム大会。優勝者には大きな豚一匹が贈られた(神奈川・川崎)

 京阪神でサッカー大会が開かれたのは、46年10月初旬であった。

 13チームが参加したこの大会は、光復後はじめての大きな競技大会であった。 

 48年5月には、東京の後楽園で2万余人の同胞が参加して大運動会が開かれている。 

 とくに48年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の創建を祝う多彩なスポーツ行事が東京、大阪、九州で盛大に開催されたが、在日同胞のスポーツ伝統として今も受け継がれている。

 しかし、米国による3年間の朝鮮戦争(50年6月〜53年7月)は、在日朝鮮人に深刻な影響をもたらした。

 マッカーサー司令部は在日朝鮮人に対して徹底的な弾圧を加えた。在日朝鮮人運動が存亡の危機に立たされた時、同胞の体育、スポーツ活動は再び冬の時代に追いやられた。

総連結成で活気取り戻す

 祖国の運命が憂慮されている時、在日朝鮮人も祖国を守る戦いに立ち上がった。

 朝鮮人民の力をみくびった米国は、祖国を死守する朝鮮人民の断固とした戦いの前に、53年7月27日、停戦協定に調印せざるをえなかった。

 祖国解放戦争に勝利し、朝鮮人民が祖国の建設に立ち上がった時、日本では55年5月25日に在日本朝鮮人総連合会(総連)が結成された。

 総連の結成は、在日朝鮮人運動を転換する決定的な契機となった。民族が主体性を取り戻した時、在日同胞社会は息を吹き返すことができた。民族愛国事業の発展とともに、同胞社会に深く根づいた体育、スポーツ活動も活気を取り戻した。

 【連載にあたって】 同胞社会を取り巻く環境が急変するなかで、在日朝鮮人の正しい進路を示した総連20全大会決定を実践するうえで重要なこの時、体連がこの半世紀、総連の指導のもとにスポーツの大衆化、学校体育の活性化、優秀選手の育成、祖国の体育発展への貢献、北南統一チーム実現など、同胞スポーツの発展に立派に寄与してきた軌跡ををふりかえってみたい。在日のスポーツの伝統と事業を新しい世代が立派に受け継いでくれることを切に願いながら。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長) 

[朝鮮新報 2004.6.3]