〈手記−体連50年史-2-〉 弾圧下の在日スポーツ |
祖国が受難の道を歩んでいる時、海外同胞が無難でおられるはずはない。3年間の朝鮮戦争は在日朝鮮人に深刻な影響をもたらした。 マッカーサー司令部は、侵略戦争に先だってまず在日朝鮮人に対して徹底的な弾圧をくわえた。 朝聯、民青の強制解散、幹部の追放と財産の没収、解放新聞と建設通信の廃刊処分、集会場や運動場での朝鮮国旗の掲揚禁止、朝鮮人学校にたいする厳しい弾圧によって、解放されたはずの在日朝鮮人社会にふたたび試練の時がおとずれた。
これらの弾圧は、朝鮮侵略をもくろむ米国の戦争準備のためであることは明らかだった。 当時、朝鮮は創建されて2年にもみたない若い国であった。1950年6月25日、米国はついに朝鮮にたいし不意の武力侵攻を開始した。戦争がはじまり、祖国の運命が憂慮される時、在日朝鮮人は祖国を守る戦いに立ち上がった。 米占領軍(GHQ)と日本当局は、各地の朝鮮人同胞が集まることを禁止した。このような状況のなかでは、スポーツ行事をもつことなどできるはずもなかった。光復とともに盛り上がった在日同胞のスポーツ活動は、再び冬の時期をむかえた。 当時、同胞たちは工事現場での重労働や部落での養豚業、廃品業などで生活は苦しかったが、弾圧と抑圧に屈することなく、祖国を防衛する戦いに立ち上がった。 しかし、同胞の願いとは裏腹に、一部の人たちは事大主義におちいり、よその国の革命運動に参加すべきだとして、運動を過激な方向へとみちびいた。誤った運動は同胞らの支持を失い、日本国民からも孤立した。 在日朝鮮人運動が存亡の危機に立たされた時、同胞の体育、スポーツ活動もまったく停滞した。民族学校で運動会が行われる程度で、青年たちのあいだで盛んであったスポーツ行事や競技大会も消えてしまった。 しかし、朝鮮人民の力をみくびった米国は、祖国を死守する朝鮮人民の断固とした戦いの前に、1953年7月27日、停戦協定に調印せざるをえなかった。 優秀な選手が集う 祖国解放戦争に勝利し、朝鮮人民が祖国の建設に立ち上がった時、日本では1955年5月に総連が結成された。 総連の結成は、在日朝鮮人運動を転換する決定的な契機となった。民族が主体性をとりもどした時、在日同胞社会は息を吹きかえすことができた。民族愛国事業の発展とともに、同胞社会に深く根づいた体育、スポーツ活動も活気をとりもどした。 当時、日本の高校、大学でサッカーに熱中していた私は、自分が将来、在日のスポーツ活動にかかわることになるとは、考えてもいなかった。 以来、蹴球団には民族学校出の優秀な選手たちが集った。なかでもゴールキーパー鄭智海選手の加入は、鉄壁の防御を築きチーム強化に重要な役割を果たす。 とはいうものの、強者たちが集まった蹴球団のメンバーには、考え方や意思の違いも少なくなかったが、ゲームになると途端に一つになれるのは不思議なほどであった。 そのころ、蹴球団の団長であった具快萬氏の計らいにより千葉船橋に合宿所ができあがった。1964年から蹴球団は常設チームとなり、更なる発展を記していく。 日本のスポーツ各紙も1面特集記事で在日朝鮮蹴球団を紹介し、「幻の強豪」「無冠の王者」とその実力を高く評価した。 『サッカーマガジン』(86年8月号)は「日本での公式大会には何一つ参加できないが各地を回って親善試合を重ね、日朝両国の友好をも促進してきた(在日朝鮮)蹴球団は日本のサッカーの発展にも一役買っている」と書いた。 在日朝鮮蹴球団は、毎年4月平壌で開催される「万景台賞」慶祝競技大会に参加するが、専門家から評価をうけたのは、1部リーグで得点をかさね活躍した金光浩選手だった。 80年、念願の朝鮮代表チームのメンバーに選抜された金選手は、モスクワ・オリンピック・アジア予選(シンガポール)、アジアカップ(82年、クウェート)、第9回アジア大会(84年、インド)などに参加し、FWとして活躍した。 朝鮮がウルグアイを下して優勝した85年の神戸ユニバーシアードで、在日選手たちが果たした役割も大きかった。その後、サッカーワールドカップ予選、ユニバーシアード大会、アジア大会などのビッグマッチにはつねに在日選手が国家代表として加わってきた。 幅広く活躍する在日選手 これまで、少なからぬ在日スポーツマンがサッカー、ゴルフ、陸上、スケート、フィギュアスケート、レスリング、ウェイトリフティング、アイスホッケーなど各種目の国際競技に朝鮮代表として参加し、活躍している。 現在も、朝大で後進を指導している陸上10種競技の金尚龍選手、ショートトラック・スピードスケートの金昌煥選手、柔道の金相賢選手が国際競技でメダルに輝いた。 国旗掲揚台に静かに揚がっていく朝鮮国旗。表彰台に立ってその旗を見あげる選手たちの胸は大きく高鳴ったに違いない。 異国で活躍する海外体育人が朝鮮国旗を胸に国際競技出場の夢が実現したばかりか、優秀な成績をおさめたのだから、朝鮮の海外体育人として、これ以上の誇りがあろうか。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長) [朝鮮新報 2004.6.5] |