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〈手記−体連50年史-3-〉 在日同胞のサッカー熱

当時、無敵を誇った蹴球団の試合には多くの同胞たちが熱い声援を送った

 祖国を遠く離れ、異国日本に住む同胞にとって、共和国の海外公民としての誇りと自負心を高めるうえで、スポーツが非常に重要な意義を持っている。

 長いスポーツ活動を通じて、私はこのことを実感する。朝鮮民族はその気性と体質から、サッカーを愛好し国技として楽しんできた。

 在日同胞にとってもサッカー競技は特別な意味がある。

 植民地のくびきから解放され、喜びにわく同胞の若者たちがスポーツに取り組んだ時、それはまずサッカーであった。

 同胞が密集する地域にサッカーチームが作られ、民族学校でも運動場で生徒たちはサッカーを楽しんだ。

日本のトップレベル

 当時、日本のサッカー界は数多くの在日朝鮮選手が活躍していたが、関西では関学の李昌碩、関大の成文慶、関東では教育大の李東揆、中大の金明植、立教の安成基等々、大学サッカー界で名声をはせていた。

 なかでも、巧みなドリブルとすばやい強烈なシュート、華麗なテクニックで多くのファンを魅了した李昌碩選手のプレーは専門家から当時の日本最高の選手として評価されていた。息子が朝鮮人として立派に生きていくことを切に願うアボジの一喝で、李選手がヨーロッパのプロチームからの誘いを蹴った話は今も逸話として残っている。

 総連結成以後、在日朝鮮人の中央体育大会と東西対抗サッカー競技が定期的に開催されていたが、彼らのプレーは同胞たちを大いにわかせた。

 しかし、大学時代にエースとして活躍していた在日の名選手たちに、日本の実業団チームから声がかかることはなかった。

 その理由はただひとつ国籍が「朝鮮」だからである。

 たまに誘いがあっても「帰化」することが条件であった。在日同胞スポーツは日本の差別のなかにいた。

東西オールスター集結

 当時、東京、大阪をはじめ各地の蹴球団が次々に創られ活動していたが、日本の公式大会には参加することができなかった。

 よりレベルの高い舞台での活躍を夢みていた同胞サッカーマンたちは、悩み多き日々を過ごさねばならなかった。

 そのような時、在日の選抜チームによる遠征試合の話がもちあがった。

 8.15解放16周年を記念して、恒例の中央体育大会が開催され、各地から参加したメンバーから遠征チームが選抜された。

 1961年8月25日、当時、東京・大塚に移転していた 総連本部に、東西の大学サッカーで活躍していたそうそうたるメンバーが集った。

 日本の大学から朝鮮大学に編入していた私も幸い選抜チームに加わったが、これが在日朝鮮蹴球団の誕生となった。

 サッカーのつわものたちの胸は高鳴った。これから在日朝鮮チームとして同胞の期待に応える決意に燃えていた。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長)

[朝鮮新報 2004.6.10]