〈手記−体連50年史-4-〉 無冠の王者、蹴球団 |
23戦全勝の輝かしい記録
在日朝鮮蹴球団は毎年各地を遠征し、日本の強豪チームや選抜チームと対戦しながら親善交流を深めていった。 サッカーのメッカ静岡から始まった遠征は、実業団の名門である日本軽金属との対戦を皮切りに、九州まで10日間に7試合をする強行軍であった。 蹴球団は歴史的な初遠征で全勝街道を走り、意気揚々と当時の日本最強の八幡製鉄と福岡での試合に臨んだ。 しかし、遠征の疲れからか4−0で惨敗を喫してしまった。 試合後、ゲームに敗れた悔しさ、同胞たちの期待に応えられなかった自責の気持ち、いずれも言葉では言い表せないものであったが、無言でスタンドを去っていく同胞たちの、あの無念の後姿は、40年たった今も私の脳裏から離れない。 いま思えば、この敗戦がバネになり、翌年北海道から九州まで2回目の遠征試合では、あの八幡製鉄にも2−0で雪辱を果たし、23戦全勝という輝かしい記録を達成した。 「よくやった!」「さすが朝鮮人だ!」。前年あれほど残念がっていた同胞たちも、涙を流して喜び選手の手を固く握りしめた。蹴球団の長い歴史の中でも決して忘れることができない遠征試合だった。 全勝記録もさることながら、自己の名声のためにボールを蹴ってきた2世選手たちも、サッカーが同胞たちに大きな希望と誇りを与えているという使命感をそれぞれの胸に深く刻むことができたのは貴重な体験であった。 3冠王、早大も破る 蹴球団にとって日本社会人リーグの強豪チームとのゲームは、選手たちが日頃鍛えた実力を発揮する晴れ舞台であり、公式ゲームに出場しているような激しい闘志と洗練された技術をいかんなく発揮した。 65年9月には当時ストライカー釜本邦茂、ゲームメーカーの森恭慈など日本代表選手を擁し、大学サッカー、天皇杯、全日本選手権など3冠王に輝く早稲田大学をも破っている。 翌年、朝鮮大学校も朝大グラウンドでのどしゃぶりの雨のなか、早大との練習試合で泥まみれの死闘のすえ、1−0で早稲田を下している。 これを契機に、金希鏡選手率いる朝大サッカー部は蹴球団とともに黄金時代を築いていく。 初期のころ、蹴球団の遠征に東京朝鮮高校サッカー部が同行していたが、前座に登場するジュニア蹴球団の目をみはる活躍に、同胞学父母や青少年たちは大いに喜んだ。以来、蹴球団には民族学校出の優秀な選手たちが集った。なかでもゴールキーパー鄭智海選手の加入は、鉄壁の防御を築きチーム強化に重要な役割を果たす。 そのころ、蹴球団の具快萬団長の計らいにより千葉・船橋に合宿所ができあがった。 1964年から蹴球団は常設チームとなり、さらなる発展を遂げていく。日本のスポーツ各紙も1面特集記事で「日本の公式試合には何一つ参加できないが、各地を回って日朝親善をも促進してきた在日朝鮮蹴球団」を紹介し、「幻の強豪」「無冠の王者」とその実力を高く評価した。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長) [朝鮮新報 2004.6.12] |