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〈手記−体連50年史-5-〉 祖国のサッカーに学ぶ

 それまで、共和国選手が国際大会で活躍するニュースだけでも勇気づけられていた在日のスポーツマンたちだったが、感激的な祖国選手団との対面が実現する。

実現した感激的な対面

サッカーW杯イングランド大会で、優勝候補のイタリアを1−0で下した朝鮮代表。アジア勢初のベスト8入りを果たした(1966年)

 1963年2月、世界スピードスケート選手権大会が開催された軽井沢で、韓弼花選手が「銀盤の女王」ソ連のボロニーナを破った。その姿に、祖国の小さな選手が世界の強豪にあんなにも堂々と戦えるのかと、同胞ともども私もたいへん興奮した。

 つづいて64年10月には、東京オリンピックに参加する共和国選手団が来日した。陸上女子800メートルの世界記録保持者である辛金丹、重量挙げの李興天選手をはじめサッカー、バレーボールなど、私たちが待ち望んでいた祖国の選手との出会いがかなった。

 朝鮮大学校のグラウンドで、練習に汗を流す祖国のオリンピック選手たちの姿を目のあたりにした時、鍛えられた体力とスピード、技術の高さは想像を超えるものであった。

 さすがに「千里馬朝鮮」の選手だと感嘆したものだ。しかし、インドネシアで開かれた新興勢力競技大会(ガネフオ)に参加した共和国選手を、オリンピックから排除しようとするIOCの不当な制裁処置により、またもや共和国選手団の五輪初参加は実現しなかった。

 不当な制裁処置に抗議したインドネシアとともに、祖国の選手団は東京に滞在することわずか10日目にして帰国の途についた。

よく走り正確なキックを

 無念の思いをおさえきれずにいたやさき、祖国のチームと試合をすることになったとの全く予期せぬ知らせが飛び込んできた。私は憧れの祖国のチームとゲームができる喜びで胸いっぱいになり、在日スポーツマンとしての誇りと意地を存分に発揮する決意を秘め試合にのぞんだ。

 しかし、在日朝鮮蹴球団は祖国のナショナルチームに7−0で完敗した。日本でトップクラスと自負していた私たちメンバーは、あまりの力の差にがく然とした。私自身これほどの大差がつくとは思ってもいなかった。

 なるほど、祖国のチームは朴斗翼、朴承振、林重善選手など、2年後のサッカーワールドカップ・イングランド大会で強豪イタリアを破り大活躍した強力チームであった。

 それまでヨーロッパ、南米のサッカーに憧れ、無条件に模倣しようとした私たちだったが、これ以降はチュチェ祖国のスポーツに学ぶようになった。

 蹴球団では「年間三千里を走る」「1日500回のキック」「1試合に10km走る」運動をすすめ、ゲームでは「よく走り、正確なキックと巧妙な戦術を駆使する」ことをモットーに実践すべく、より多くの汗を流した。

 戦術面でもいち早く4・2・4システムを取り入れ、全面攻撃、全面防御を確立するため力をそそいだ。

 その後、日本での対外親善試合はもちろん、スリランカ、中国、台湾での海外遠征でも在日朝鮮蹴球団はその実力を発揮した。

 蹴球団が同胞に愛される共和国の海外体育団としてその歴史を刻んでいけたのは、祖国のチュチェ体育を具現する努力の結果ではなかったかと、私は今さらながら考えるのである。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長)

[朝鮮新報 2004.6.17]