〈手記−体連50年史-11-〉 国際舞台での活躍 |
2000年9月、シドニーオリンピックの柔道会場。そこで私は、若いが堂々とした一人の審判員の姿を見た。 評価受ける国際審判員 「待て!」「効果!」「一本!」。緊張した会場に響く切れ味の良い判定に、観衆も思わず手に汗を握る。 その審判員は、国際審判委員会のA級審判員として五輪の舞台に立った、在日の柔道家である玄昌貴くんだった。在日のスポーツマンがオリンピックにレフリーとして出場するのは、彼が初めての快挙である。
審判の判定問題が物議をかもしていたなかでの見事な活躍は、専門家からも高い評価を受けた。 国家代表として国際競技に出場してみたいという私たち1、2世の在日スポーツマンの誰もが抱いていた長い間の夢が、今では祖国の配慮のもとで現実のものとなった。 1976年、平壌で開催されたアジア卓球選手権大会と社会主義国青少年柔道選手権大会に、初めて在日選手が「総連チーム」として参加し、柔道青年の部で韓一繿I手がメダルを手にした。 79年、ルーマニアとオーストリアで開催されたフィギュアスケート大会、世界選手権大会には在日の選手が朝鮮代表として参加した。 最も人気の高いサッカーで在日選手として、国際的レベルにある朝鮮代表の初の栄誉を担うことになるのは在日のどの選手だろうかと、同胞の間で注目されていた。 在日朝鮮蹴球団は、毎年4月平壌で開催される「万景台賞」競技大会に参加するが、専門家から評価されたのは、1部リーグで得点を重ねて活躍した金光浩選手であった。 念願の朝鮮代表チームのメンバーに選抜された金選手は、モスクワ・オリンピックアジア予選(80年、シンガポール)、アジアカップ(82年、クウェート)、第9回アジア大会(84年、インド)等に参加し、CFとして活躍した。 多様な種目の代表に 朝鮮がウルグアイを下して優勝した85年の神戸ユニバーシアードで、在日の禹弘哲、呉東根選手が果たした役割も大きかった。 その後、サッカーワールドカップ予選、ユニバーシアード大会、アジア大会などのビッグマッチにはつねに在日選手が国家代表として加わってきた。 サッカー以外でも、少なからぬ在日スポーツマンがゴルフ、陸上、スケート、フィギュア、レスリング、ウエイトリフティング、アイスホッケーなど各種の国際競技に朝鮮の代表として参加し、活躍している。 現在も、朝鮮大学校で後進を指導している陸上10種競技の金尚龍選手、ショートトラック・スピードスケートの金昌煥選手、柔道の金相賢選手が国際競技でメダルに輝いた。 国旗掲揚台に静かに上がっていく朝鮮国旗を見上げる選手たちの胸は、大きく高鳴ったに違いない。 異国で活躍する海外同胞体育人の国際競技出場の夢が実現したばかりか、優秀な成績も収めているのだから、これ以上の誇りがあろうか。(琴栄進、在日本朝鮮人体育連合会理事長) [朝鮮新報 2004.7.15] |