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〈新潟県中越地震〉 被災同胞とのふれあいの中で@

 10月23日に起きた新潟県中越地震から1カ月が過ぎようとしている。被害にあった同胞たちは、少しずつ落ち着きを取り戻してはいるが、今なお肉体的、精神的な傷跡は大きい。それぞれ愛着を持った土地で暮らしてきた同胞たち。地域同胞や各地朝青員(総聯中央の支援部隊)らの励ましや支援を受けながら、復興に向けて立ち上がる同胞らの姿を追った。(金明c記者)

川口町−焼肉店が全壊、李相烈さん夫婦「裸一貫で始めた思い出の店を後に」

 新潟県川口町。人口約5700人。10月23日の地震の際、震度7を観測していたことが1週間後、30日に判明した。確かに、直後に訪れた現場は廃墟といってもよかった。

 李相烈さん(65)と羅静代さん(63)夫妻は同町で焼肉店を営んでいたが、今回の地震で全壊した。1階にいた李さんらは、一瞬にして崩れた建物の中に埋もれたが、高さのある冷蔵庫とカウンターのおかげで直撃を免れた。

カメラを向けると恥ずかしそうに顔をそむける李相烈さん(左)。その傍らで「どうにかがんばれる。大丈夫」と笑顔の妻の羅静代さん

 「生きているのが奇跡。5秒ですべてを失った…言葉にならない」。無残な姿になった店を眺めながら李さんはつぶやいた。

 同町で焼肉店「楽苑」を営んで約25年。子ども4人を連れて裸一貫から始めた。

 「苦労も多かったけど、当時は小千谷市や長岡市で焼肉店をしていた同胞たちが多かったからよく手伝ってもらった」

 町内で場所を転々としながら、今の場所に落ち着いたのは1988年。まだ16年しか経っていない。その前は六日町、川口町などでパチンコ業も15年ほど営んだ。

 焼肉店を始めると地元だけでなく、長岡市や小千谷市からも多くの客が足しげく通ってきた。それほど牛肉は貴重だった。

 「ここで焼肉を始めた当時はみんな珍しがってね、新幹線の建設に携わっていた人たちでにぎわった。和牛1本でやってきたもんだから結構有名で、うちの店を知らない人はこの地域にいなかった」

 李さんはさらに続けた。

 「30、40代の頃は焼肉店を営みながらよく総聯中越支部で活動したもんだ。あの頃は同胞も多くてね。魚沼の分会長も務めながら、たくさんの同胞たちに会って、いろんな話をした。新潟港から祖国に向かう第1次帰国船も見送ったりしたんだよ」

 県内の同胞や地元の人たちに愛され、たくさんの思い出が詰まったお店も今は無残な姿をさらけ出している。地震保険には入っておらず、年金の受給資格もない。

 直後から車中での生活が続いていたが、今は町の被災者らとともにやっと保育園に移った。しかし、避難所では他の家族と一つのテントで生活しなければならないとあって、また車中での生活に戻った。

 食料は十分にある。あとは住むところさえ確保できれば。仮設住宅に入れるように申請中だが、はっきりとした目途は立っていない。

 「もうここで商売する気は起きない。今回の地震で6〜7割の人たちがこの町を出ていくだろう。仮設住宅にも入れるかわからない状態だし、この先本当にどうなることやら」

 今年の8月を最後に、孫の顔を見ていないとおもむろに話しながら、「とにかく今は孫の顔をみたい」。そう言って李さんはやっと笑顔を見せた。(つづく)

[朝鮮新報 2004.11.19]