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〈投稿〉 李在逵副会長を悼む

 神奈川朝鮮初中高級学校教育会副会長であり、南武朝鮮初級学校教育会元副会長でもあった李在逵氏が死去されてすでに数カ月が経った。

 ずっと前のことになるが、私が偶然中高で副会長にお会いした時の話だ。その時、副会長はちょうど運動場の隅にあった大きな「クスノ木」を掘り返しこれを根の方に移して子どもたちの遊び場を広くする作業に取り掛かっていた。

 副会長は私の顔をみるなりすぐさま「イプリ(この根っこ)がなかなか抜けない、イルボンノムカッタ」とはき捨てるように語ったことを覚えている。瞬間、私は胸にじんと来るものがあった。これほど「イルチェ(日帝)とイルボンノム」を憎んでおられたのかと思われたからである。

 私はとっさにその場にあった重い「ツルハシ」を取り上げ手伝おうとした。ところが副会長は笑いながらさえぎり「先生はコンブ(勉強)をしっかり教えなさい」と優しく諭すのだった。

 素朴ながらも簡潔なこの言葉の中に学校管理に対するご自分の強い気持ちとその責任感が、そして私たち教員への温かい思いやりがこもっていて今になってもあの時のことを忘れることができない。

 あの時以来、副会長は、87歳で永眠されるまでの実に30有余年の長い年月を、ひたすら愛族、愛校の精神に燃え、朝早くから夜遅くまで子どもたちのため汗水流しながら黙々と働いてこられた。

 運動場の整備と学校周辺の緑化作業に始まり、丈夫で広く立派な校門の建立、便利できれいな舗装道路の新設、子どもたちの遊び場の増設に遊び道具の製作、長大な垣根も完成したうえ、建物の補修、そして屋根や壁のペンキの塗り替えなど、実にその何一つとして副会長の手をわずらわさないものはなかった。

 寒い冬のある日のことである。学校の便所が急に壊れて水が大量にあふれ出した。生徒たちが見つけて大騒ぎ。急報を聞いた副会長は取るものも取りあえず急いで駆けつけ、服を脱いで丸裸同然でマンホールのふたをあけるやその中に飛び込み、故障を直したという。

 副会長はこうした仕事のたびに学校に子どもたちの家族らも呼んで仕事を手伝わせたばかりか、実地に教育をすることも忘れなかったと聞いている。

 万事がこの調子で副会長は川崎も鶴見も南武も、そして横須賀もみなわが孫たちの学校だからと、頼まれれば急いで駆けつけ運動機具を送ってあげたり、補修に余念がなかった。

 そのため県下の子どもたちは、顔を覚えていて「今日も学校にハラボジが来た」と歓声をあげることさえしばしばあったという。

 さらに私を驚かせたのは、この30余年の間、副会長は学校から一文の報酬も交通費も受け取らなかったことだ。ぼう大な資材もすべて自費で購入、施設を補修されたばかりでなく学校運営にもそのつど巨額のカンパをされた。その金額たるや、最近の16年間だけでも年間500万円を下らず合計8000万円を超えた。

 それだけではない。副会長は南武支部をこよなく愛し、子どもたちを立派に育てた。

 子どもら全員に民族教育を受けさせ、現在、長男の一富氏(63)は南武支部商工会会長、次男は帰国、三男は科学者協会会長、そして孫たちを含め、みなウリ同胞のため働いており、ひ孫たちもウリハッキョで学んでいる。

 とくに長男は父上の背中を見て育っただけあって、事あるごとに支部へ出かけ、建物の補修やペンキ塗りもいとわず、はては便所の補修まで手がけていると聞いた。それのみか先般、拉致問題や専従委員長不在という厳しい状況の中、委員長を代行。龍川災害救援活動にも先頭に立って輝かしい成果をあげ、今年の支部大会を迎えることに貢献した。

 子は父母の背中を見て育ち、民族教育を受けることによってさらに自らを磨く。私たちの尊敬する李副会長は、立派にこの一世の課題を成し遂げた。

 1938年、21歳の若さで生活を求めて渡日して以来、差別と抑圧にもめげず、実に60余年、87歳の高齢までこのまっすぐな道を歩み続けてきたその姿に、私たちは深い敬意を表すばかりである。

 私たちは貴方が残してくれた大事な心と業績をより発展させ、大きく祖国統一と在日同胞の権利擁護のため果敢にたたかい続けるだろう。

 安らかな安眠を願ってやまない。(元神奈川中高教員、孫済河)

[朝鮮新報 2004.12.7]