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強制連行の語り部 姜金順さん死去、「魂のアリラン」口ずさんで永眠

 さる11月8日、北九州市八幡西区に住む在日1世の姜金順さんが死去した。享年93歳。悲報を聞いて同胞、日本人約1000人が10日の告別式にかけつけた。福岡朝鮮歌舞団の歌手で孫の「由香さん(25)の歌う民謡「アリラン」の歌声に送られて、永久の別れへと旅立った。

元気な頃、チャンゴをたたいて「アリラン」を歌い続けた

 金順さんは85歳を過ぎてから4男の「東録さん(61)と二人三脚で福岡、山口県を中心に日本の小、中、高、大学約100校を訪れ、子どもたちの前で、在日朝鮮人の強制連行の歴史などを350回も語り継いできた。地元では「言葉いう人間教科書」と呼ばれていた。

 金順さんは42年、八幡製鉄所に強制連行された夫を追って、4人の幼子を連れて関釜連絡船に乗り、玄海灘をわたった。重い鉱石を一日中、貨車に運ぶ作業についた。しかし、労賃はほとんど強制預金に持っていかれ、結局、最後まで支払われなかった。日本が戦争に負けると、夫婦とも解雇された。

 日雇いで土木作業をする夫を助けるために、近くの空地を耕して畑を作った。そこで作ったニンニクやサンチュを、八幡や小倉の同胞に売り歩きながら生計を立てた。字が読めないために、一人ではバスや汽車にも乗れず、どんなに遠くても歩くしかなかったのだ。

日本の子どもたちにも平和の貴さを説き続けた

 日本敗戦から半世紀を過ぎた頃、在日朝鮮人の強制連行史の掘り起こしに取り組む東録さんとともに、市民集会などで体験を語るようになった。リアルで飾らない話ぶりが好評で、次々と依頼がくるようになった。小中学校では歌や踊りも披露するようになった。

 そして、涙を浮かべて全身で訴える「戦争をしたら絶対にタ(ダ)メヨ」の叫びが子どもたちの心琴に触れ、涙を流す子も多かった。

 このような感想を記す子どもたち。「私には姜さんが訴えようとする内容が不思議と伝わった。それは、姜さんの胸を焼くような悲しみが、思わず姜さんの揺り動かすような身振りの中に見られる。…私は痛いほどオモニの気持ちを感じとることができた」(中間市立東小学校6年生)。

 そんな金順さんが文字を習い始めたのは85歳を過ぎてから。「じをかきたい」という痛切な思いに突き動かされて、ほとばしる願いをノートに刻んだ。

 文字を丁寧に教えてくれるボランティアの若者たちへの心からの感謝の気持ちを持ち続けた金順さん。また、日本の若者たちは金順さんの姿を通して、人にとって学ぶということがいかに崇高なことかを知らされたという。

 しかし、2年ほど前から体調をこわして、病床につくことが多くなった。

 それでも、金順さんはひっきりなしに見舞いに訪れる子ども、孫、曾孫の一族62人に「民族を忘れてはならないよ」と言い聞かせた。

 亡くなる前夜、東録さんが見舞った時にも、病室の外まで金順さんの口ずさむ「アリラン、アリラン」の朗々とした歌声が響き渡っていた。「アリラン」こそ、金順さんの苦しみ多かった生涯を通じて、励まし、勇気を与えた「魂の歌」だったのだ。

 5男栄東さんはオモニの一生をこう振り返った。

 「気丈夫なオモニでした。まっすぐで、心やさしい笑顔が満月のようなオモニでした。絶対にへこたれないガッツのあるオモニでした。苦難に満ちた激動の時代に逆境をバネに強くたくましく生きたオモニでした。民族を愛し、同胞を愛し、苦労人たちを愛し、子ども、嫁、孫、一族を皆、身を挺して守り、愛し抜いたオモニの生きざまを誇りに思います。そして、オモニに感謝の気持ちでいっぱいです。オモニはこれからも私たちの心の中に強く強く生き続けます」(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.12.11]