〈東京朝鮮第2初級学校土地問題〉 弁護団が視察、関係者と懇談 |
都が不当にも提訴した東京朝鮮第2初級学校(東京都江東区枝川)のグラウンド用地の払い下げ問題に関する裁判が2月12日から始まるのと関連し、8日、学校側弁護団をはじめ外国人問題に深くかかわっている龍谷大学の田中宏教授らが同校を訪問、関係者らと懇談した。一方、同校父母の会や地域同胞らは現在「学校の存在、歴史的経緯を踏まえ、都が誠意ある姿勢を持って払い下げを実施する」よう署名運動を展開、これまでに1万2000人が賛同している。 都は放棄、同胞が管理
懇談会には、枝川に解放前から同胞が住むようになったことを知る生き証人、1964年の校舎建設にかかわった同胞をはじめ、枝川住宅管理委員会(金成泰委員長=総聯東京都中央江東支部委員長)および学校関係者、地域同胞らが参加した。 懇談会ではまず、宋賢進校長が学校の沿革について説明した後、44年から枝川に住み、その後、住宅管理委の初代責任者を務めた朴在魯さん(現在は江戸川区在住)が経緯について語った。 それによると、40年に開催予定だった東京オリンピックおよび万国博覧会会場、関連施設が建てられる予定だった枝川周辺の浜園、塩崎などに住んでいた同胞らが41年に強制的に集められ移住させられたのが同地だという。都(当時は東京市)は枝川簡易住宅(23棟230戸、約1000人収容)を建て同胞を住まわせた。が、住宅といっても、「人がまともに住めるような所ではなかった」(朴さん)。周囲にはゴミ焼却場と消毒所があり、食事をしようにも、ハエが群がる。またゼロメートル地帯とあって、雨が降ればすぐに床下、床上浸水し、最悪の衛生状態だったという。 さらに、現在の学校のグラウンド内には、協和会(日帝の御用団体)が朝鮮人を監視し、講演などを通じて皇国臣民化教育を実施するための施設「隣保館」もあったという。
45年3月10日の東京大空襲後、同胞たちは炊き出しを行い、近隣の家を焼かれて住む所がなくなった数千人の日本人を救援。そうした日本人がその後、枝川に住むようになったという。その美談は当時の各新聞に大々的に報道された。 一方、住宅管理については、都が解放後に不正に管理費を徴収していたことが発覚。それを機に都は45年末から管理を放棄し、自主的に同胞らで組まれた管理委が管理を行うようになった。朴さんはその初代責任者を務めた。 47年頃、台風が同地を襲って瓦が吹き飛び、都に補修を要求した際には、担当者から朴さんに「無償払い下げ」の話も持ち込まれたという。「無償」という話になったのは、同地に同胞が「強制移住」させられた歴史的経緯を踏まえてのことだ。 学校設立の経緯については、同胞らが解放後の46年1月15日、奪われた民族の言葉と文字を子どもたちに学ばせるために設立。グラウンドは当時、半年間かけて同胞らが造成したものだと語った。 最後に朴さんは、「枝川の土地と同胞、学校は一体であり、そこには同胞らの血と涙と汗が染み込んでいる。だからこそわれわれはそれを守らなければならない」と訴えた。 居住地はすでに払い下げ 弁護団ら一行は、学校および、2000年に都が払い下げた枝川の居住地を見て回った。払い下げの対象は約220戸(同胞約40%、日本人約60%)で、この事業は枝川住宅管理委が間に入って円満に解決させた。 一行は、住民らのたたかいにより、街灯や都市ガスをはじめ、昨年には下水道の本管が導入されたことなども知った。 都は土地明け渡しの処置(多額で買うか、借りるか、返却する)を求めているが、「この地は本来、無償で払い下げが行われなければならない歴史的経緯のある地」だという住民らの訴えに新美隆弁護士は、「必ず勝てるよう努力したい」と語っていた。(羅基哲記者) [朝鮮新報 2004.1.17] |