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東京・枝川朝鮮学校支援都民集会、「とりあげないでわたしの学校」の発言から

 枝川朝鮮学校支援都民集会「とりあげないでわたしの学校」が7月24日、東京都江東区総合区民センターで開かれた。東京都は、都有地上に建てられている東京朝鮮第2初級学校(江東区枝川)に対し、校舎の一部を取り壊して立ち退くことと、4億円もの地代相当金を支払うよう求めて昨年12月に裁判を起こしている。集会では、枝川に朝鮮人が住むようになった歴史的経緯から見ても都の訴えは不当だとし、訴訟をただちに取り下げるよう求めると同時に、朝鮮学校の問題を在日だけの問題ではなく、日本社会の問題として考えようと江東区民を中心とした日本市民たちに呼びかけた。集会で講演、リレートークを行った7人の発言を紹介する。(まとめ、崔良先記者)

植民地時期と変わらぬ差別(龍谷大学教授、田中 宏)

 1962年から10年間、アジア人留学生の民間世話団体に勤務した。留学生は、「学生」という側面と「外国人」という側面を合わせ持っていた。その時初めて指紋の押された「外国人登録済証明書」を見た。

 2002年7月、文部科学省は朝鮮学校を含めて外国人学校卒業者に大学入学資格を認める方針を固めた。しかし、9月17日の日朝首脳会談で「拉致」の事実が明らかになってからは、それをインターナショナルスクールに限定し、民族学校は対象外とする措置を講じた。これに反発した在日コリアンと日本人たちは、協力し合いながらさまざまな運動を展開してきた。

 03年12月、東京都は、江東区枝川にある東京朝鮮第2初級学校の校地のうち都有地の明け渡しを求めて裁判を起こした。朝鮮学校つぶしを目的としている。

 入学資格問題に取り組んだ「弁護士有志の会」に参加した東京の弁護士たちは弁護団を結成し、朝鮮学校を守る闘争を始めている。

 これまで朝鮮学校は優遇でなく、差別を受けてきた。

 現在も外国人に対し、母国の一員として生きることや、学んだりすることを認めないのはたいへん問題である。植民地時期と何も変わらない。

 在日コリアンをはじめとする外国人たちの民族教育の権利をいかに確立するかが、日本では問われている。

五輪契機に朝鮮人を収容(江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会、中沢康夫)

 江東区には東京湾、隅田川河口埋め立て工事などに従事する多くの朝鮮人が居住。関東大震災時の朝鮮人虐殺現場であり、一方では朝鮮人労働運動の拠点でもあった。

 枝川町に塵芥処理工場が建設されたのは1929年。当時は塩崎、浜園にバラックが集中していた。東京オリンピック大会(1940年、中止)を契機に撤去計画が推進されることにより、枝川町に多くの住民が収容された。

 すぐ近くに塵芥処理場と消毒所があり、悪臭とハエに悩まされた。水はけが悪く、雨が降ると水浸しになり、ひざまで水がたまる始末。環境はひどく悪かった。

 苦しい生活は戦後も続いた。

 46年、民族の歴史や言葉を教える学校(国語講習所)を隣保館に開設。これが現在の東京朝鮮第2初級学校の始まりであった。

 55年には当時の枝川を舞台に、朝鮮人たちが民族教育をいかにして守ってきたのかを描いた映画「朝鮮の子」が製作された。

 2度の帰国事業で(少なくない)朝鮮人たちが帰国した後には、日本人居住者の比率も高まった。

 在日朝鮮人も一世から2世、3世から4世へと世代が受け継がれている。

「ウリハッキョは体の一部、命」(東京第2初級学校父母の会相談役、金敬蘭)

 枝川に朝鮮人が住むようになったのは、1940年に東京オリンピック大会が予定された時、環境整備のため、塩崎町や浜園町のバラックに住んでいた朝鮮人たちを強制的に移住させたのが始まりだ。

 塵芥埋立地であった枝川の居住環境は最悪だった。

 下水施設がなく、雨が降るとひざや腰まで水がたまり、共同便所の汚水などが水に浮き上がって外を歩けない状態だった。蚊やハエが大量に発生するので臭く、非衛生的でとても人間が住むようなところではなかった。

 子どもの体にも発疹が出た。

 区、保健所に行き、消毒液を分けてほしいと頼んでも相手にしてくれなかった。やっと手に入れたと思ったら、今度は消毒液をまくポンプがなかった。貸してくれと頼んだが、買えと言って貸してくれなかった。1カ月に4度も交渉に行ったらやっと貸してくれた。

 この地域には子どもたちが安心して遊べる公園や街灯もなかった。

 子どもたちの安全のため、区や都に行き何回も交渉を重ねた。私たちの熱意が通じたのか、やっと公園ができ、街灯もつけてもらった。

 今日の枝川部落には、町内の朝鮮人や日本人の手がかからなかったところは何一つない。

 同胞たちは苦しい生活の中でウリハッキョを作り、民族教育のため闘ってきた。

 子どもたちは私たちの希望、ウリハッキョは私たちの体の一部、民族教育は私たちの命である。

 私は80歳になっても90歳になっても最後まで民族教育を守っていきたい。

 ウリハッキョを自分たちの学校のように愛してくれている日本人も多い。

 私は土地問題が要望通りに解決されるまで、東京都庁に行き、団結した力で勝ち取るまで闘い続けたい。

[朝鮮新報 2004.7.31]