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京都ウトロ土地問題は明確に戦後補償問題

 ウトロ地区とは、京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。朝鮮解放前の1941年、大陸侵略を進めていた日本政府や京都府、国策企業が計画した軍用飛行場建設の飯場が作られ、工事のために連れてこられた朝鮮人労働者1300人が住むようになった。現在、ウトロには6400坪に65世帯、約250人の同胞が暮らしているが、彼らは半ば強制的に連れてこられた1世たちと、その子孫である。65世帯のうち17世帯は身寄りのない高齢者の独居世帯だ。

 このような歴史的経緯を考える時、ウトロの土地問題は明確に戦後補償問題である。

 しかし、日本政府は飛行場建設事業を直接推進したのが民間の日本国際航空工業株式会社(後の「日産車体」)だとして、何の補償もせず、積極的にかかわることすら避けてきた。

 87年、日産車体は住民の意思を無視し、彼らに知らせることなく西日本殖産に転売。西日本殖産は89年初、住民らに突如立ち退きを要求。それに屈しないと見るや、住民らを相手に訴訟を起こした。00年11月、最高裁での上告棄却決定で住民側が敗訴。判決は問題を土地の所有権の有無に関する事項ととらえ、政府や企業、自治体の戦争責任、戦後補償責任を無視した不当判決だった。

 これによって住民らは常に立ち退きの強制執行の恐怖に脅かされるようになった。今年1月、土地所有権が西日本殖産から大阪市内の個人に変更され、「近く強制執行が行われる可能性が高い」と憂慮されている。(姫)

[朝鮮新報 2004.8.19]