「崔漢綺誕生200周年記念学術会議」に参加して-上- |
昨年11月21日から22日にかけて、ソウルの成均館大学校の大東文化研究院の主催で、表記の学術討論会が多数の参加者のもとに開かれた。 成均館大学校は、朝鮮王朝時代から儒学研究の大学院として600年の伝統を誇り、現在は医学部もある総合大学であるが、伝統思想の研究は、もっぱら大東文化研究院が中心となって行われている。 筆者には、崔漢綺研究の長い経歴を持つ海外同胞として、研究論文発表の招請状が寄せられたのである。 この学術会議の主題が「恵岡・崔漢綺の気学思想・東西の学術的な出会いから見る新境地」であるので、基調報告として、前成均館大学校の教授であり、この大学校から3次にわたり、崔漢綺全集を出版している李佑成先生と、大東文化研究院長の林熒澤教授が、包括的な報告を行った。主題発表は8名。国内から4名の研究者と、海外から4名。すなわち、海外同胞として前朝大教授の小生および中国航空航天大学哲学教授の龐萬里先生、日本東京大学の川原秀城教授、台湾清華大学の張永堂教授である(主催者側は、いくつかのルートを通じて、崔漢綺研究の開拓者の1人であり、すぐれた研究を発表されている朝鮮社会科学院の鄭聖哲先生を招待するため努力をされたのであるが、時間切れとなった)。 それでは学術会議の内容に入る前に、まず、今なぜ崔漢綺であり、なぜ彼が今、海外でも注目されているのか、崔漢綺の生涯などを簡単に紹介しておくことにしよう。 崔漢綺(1803〜1877)、号は恵岡、もともとは開城の人。一家は、生活が安定してソウルに進出したと思われる。 実は崔漢綺は「解放」までは全く「忘れられた思想家」であった。解放を迎えて朝鮮で初めて朝鮮哲学通史を編纂する過程で「発見」され、その徹底した気一元論が近代唯物論に近いと評価され、故鄭鎮石、鄭聖哲、金昌元の共著「朝鮮哲学史」(上)が1960年に紹介されたのである。朝鮮大学校で哲学を教えていた筆者は、初めて見る朝鮮哲学史を感激して読みながら朝鮮王朝末に来て、これまで聞いたこともない崔漢綺の学説の内容に驚き、朝鮮文化財の徹底的収奪をはかってきた日本に、彼の文献は必ずあるはずだと、主な図書館を調べはじめたのである。 はたして朝鮮でも知られていない、彼の主著に当たる文献が次々に出て来た。彼の直筆と思われる大著「人政」25巻、12冊(東京東洋文庫のほかにも「陸海法」大阪市)、朝鮮で初めて世界地理を紹介した「地球典要」(愛知県)、「農政会要」(京大図書館)などである。 私はこれらの中でも、最も独創的な「人政」を学会に紹介する必要があると考え、1963年秋の「朝鮮学会」に「崔漢綺の『人政』とその教育思想」として発表したが、これは在日科学者協会の「共和国創建15周年記念論文集」にも加えられ、それは朝鮮で立派な本にしてくださった。 これには実は余談があって、その「朝鮮学会」に「韓国」の代表的な哲学者である朴鐘鴻教授が参加していて、筆者の報告を聞いて大変驚き、私の報告が終わるとすぐレジュメを求められ、その文献がどこにあるのか聞かれたのである。こうして朴教授の崔漢綺研究が始まるのであるが、その後、朝鮮の「朝鮮哲学史」の南への普及と朴教授の研究発表とが相まって、南の地でも崔漢綺への関心が高まっていく。また、膨大な鄭聖哲先生の「実学派研究」が注目を集めた(1974年)。 ところが、当時北と南の研究者は、崔漢綺の生涯についてなにも知るところがなかったのである。生涯年すらわからず、ただ「古山子」が作ったという有名な地図帳「青岡図」に書いた、彼の序文によって、古山子が金正浩であり、金正浩の唯一の親友が崔漢綺であることがわかっただけである。 ここで登場するのが、成均館大の李佑成先生であって、先生は膨大な崔氏の族譜を精力的に調査され、ついに崔漢綺一族の記録を突き止め、崔漢綺が1803年に生まれ、一生在野の学者として、1877年に没し、崔氏代々の墓が開城の東面籍田里細谷(亜澗茨)にあることを明らかにした。そして、それまでに明らかになった多数の著作の序文などから、くわしい彼の「年表」を作り上げ、彼の思想史的位置として封建末期の「実学思想から(近代的)開化思想へと移行する架橋者」の役割を果たす人物だと規定されたのである(「崔漢綺の生涯と思想」、「崔漢綺の家系と年表」参照)。 こうして、思想史的にきわめて魅力的な人物として、南では崔漢綺研究のブームが起こり、彼を研究する多数の第2世代が育っていく。最も頭角を現しているのが、精神文化研究院の権五栄博士で、彼らのグループの努力で、ついに6代目の直系子孫が捜し出され、その家にかなりの量の未発表の著作と伝記資料が発見されたのである。(金哲央、朝鮮大学校非常勤講師) [朝鮮新報 2004.4.1] |