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「崔漢綺誕生200周年記念学術会議」に参加して-下-

 直系子孫と新しい資料の大量発見は、学界の慶事であると歓迎されたが、成均館大、大東文化研究所は、ただちにこれらの資料をマイクロフィルムに収録するとともに、活字化し、これらの資料を収めて第3次崔漢綺全集である「増補明南樓叢書」全5巻を計画、ついに2002年11月、出版にこぎ着けたのである。

 同時に、同研究所は1セットを筆者に贈られ、さらに1セットを朝鮮社会科学院へと小生に託され、同時に2003年11月が崔漢綺の生誕200周年に当たることから、これを記念する学術会議に鄭聖哲先生、さらに朝鮮における崔漢綺研究の第2世代ともいうべき「崔漢綺の気一元論的哲学思想研究」の著者、崔トンジョン博士の参加の意向を打診されたのである。

 結果的には、時間切れとなったけれども、この過程で南北交流の気運はかなり強化されたと思われる。

 学術会議の主題がなぜ「恵岡の気学思想、東西の学術的な出会いから見る新境地」なのかを、まず説明しておかねばならない。

 彼は伝統的な儒学に造詣が深かったけれども、同時に西洋の科学技術にも関心が深く、ソウルの書籍商に常日頃「何か珍しい本を入手したら言い値で買うから持ってきなさい」と言ってあった。したがって、本屋は特に中国に来ている西洋の宣教師たちが人々の関心を引くために、漢文で出版した書籍類―天文学、数学、世界地理、物理学、機械学、農学、解剖学を含む内科、外科、産婦人科、小児科などの医学書などが、19世紀中期から盛んに朝鮮に輸入され始めたのであるが、それら「珍書」が入ると、本屋はまず崔漢綺の家に持ち込むのであった。

 彼はこれらの本を、大変なスピードで自分の見解を入れながら要約し、編纂しながら自分の本に仕上げ、周囲の人に示したのであった。

 こうして彼は、学問は広く見識は高く、数千巻の珍書を持ち、前人未発の見解を展開する学者と言われたが、晩年には「珍書の購入によって家を亡ぼした人物」と言われることになった。権五栄の研究によれば、晩年は家が零落して、せっかくの自分の著作を質入れして生活を維持する状況だったという。いわば彼は、独自の思想家であるとともに、朝鮮王朝後期に朝鮮にはじめて多くの西洋の科学技術書を取り入れて紹介し、日本の幕末の「洋学」にあたる学問を、朝鮮に初めて紹介した人物でもあるのだ。

 このような人を、今日どのように見るべきであろうか。このような問いかけが「東西の学術的な出会いから見る新境地」という主題の設定にも含まれているのであろうと、筆者は考えたのである。

 全体会議の話に移ろう。

 まず、李佑成先生の「恵岡崔漢綺研究の過程と現況、そしてその展望」。一生の半分を崔漢綺の研究に捧げられた長老の味と深みのあるお話。

 ついで大東文化研究所長の林熒澤先生の「東西の学術的な出会いにおける二つの道―丁若繧フ経学と崔漢綺の気学」。実学の集大成者といわれる丁茶山との比較で恵岡気学の近代性というべきものを評価し、恵岡が開国して、東西が平等の開かれた関係となることを楽観していたことの現代的意義を説かれる。依然として戦火のつづく今日に、傾聴すべき問題提起。

 以上で午前は終わり、午後の主題発表は、2つの会場で8名が行う。筆者は第2会場で1番目の報告。「崔漢綺の著作『身機践験』の編輯方法とその気思想」である。彼のこの著作は、実は中国に来ていた英国医療宣教師、ホブソン(合信)の「内科新説」や外科、産婦人科、小児科の4種の医学書と初歩的な物理化学の本「博物新編」の編纂物で、彼の伝統的気の思想は、この編輯過程で、西洋の科学思想、物理化学の思想−空気は酸素、水素、窒素からなり、水は、酸素と水素から、そして世界は56(現在は100余)の元素からなる−の影響を受けただろうかを論じたもの。

 彼の伝統的気思想が、近代唯物論に脱皮できたかという、大きな問題を投げかけたつもりだが、この問題提起を何人かの人が受け止めてくれれば満足。合信の本にある解剖図、外科手術やお産の図を、彼は一つも紹介していない。彼は、東洋の気思想から西洋の物理化学の思想へ橋渡しする大きなチャンスを持ったのだが、これを生かすことは、鋭敏な次の世代にまかされたようである。しかし、彼は弟子運に恵まれず、時代は19世紀末の困窮の時代に突入したのだ。

 同様な問題意識の報告として、東大の川原秀樹教授が「気学と医学」を報告された。第1会場では、権五栄さんが「崔漢綺気学の思想史的な意義と位置」という、良くまとまった報告をしたし、独特の語り口で、若い人に人気のある金容沃教授が「読人政説」と題して、大演舌をされた(くわしくは、同研究所の『大東文化研究』45号を見られたい)。夜の招待宴では、「海外でご苦労をしている」と、筆者に祝杯の辞をせよと言われ、小生は「恵岡先生は兆民有和する大同社会」の到来を説かれたが、そのためにわれわれはまず南北統一のため努力しようと、提起したのであった。翌日は、成均館と秘苑の参観と午餐。こうしてたくさんの交流と刺激に満ちた2日間を終えたのである。(金哲央、朝鮮大学校非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.4.9]