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〈開設から15年、高麗美術館〉 朝鮮美術の粋キラリと光る

 歴史学者の上田正昭京大名誉教授が「キラリと光る美術館」と評する朝鮮美術の粋をあつめた高麗美術館。1988年10月15日に開設して満15年になる。オープン以来、すでに世界各国に暮らす同胞、美術愛好家など約9万人がこの美術館を訪れた。

 16年前、オープン直後に高麗美術館の鄭詔文理事長にお会いして話を聞いたことがあった。その時に鄭さんは「私たち1世には、分断された祖国を次の世代に残してしまったという責任がある。同時に、次の世代に朝鮮人の魂を伝えていく責任もある。あと少しで70。その1世の私が朝鮮人としての生きざまを生き抜くために、何をすべきかと考えた時に、これしかないと思った」と力強く語った。民族教育にも深い愛情を注ぎ続けた鄭さんは、子どもたちに民族の文化遺産を実際に目で見、手で触って、民族の心を知り、民族の誇りを培ってほしいと願っていた。

 高麗美術館の理事でもある随筆家の岡部伊都子さんが繰り返し語り続けている言葉がある。

 「高麗青磁や李朝白磁、井戸茶碗などに垂涎の好事家が、現実の朝鮮人を蔑視迫害することはよくある。日本人は、朝鮮人自身よりも深い愛着をもつといわれるほどにこれらの作品を熱愛しつつも、その作品にこもる朝鮮の魂や力や美感覚を見ようとしない。生産者としての朝鮮民族を踏みにじって、そのうるわしき作品を何でも奪おうとする侵略者でしかない」

 鄭さんはこのような日本人のゆがんだ朝鮮観を古美術のオークションなどでたびたび体験しながら、激しい心の痛みを覚えたのである。いずれは蒐集した美術品を祖国へと夢見ていた鄭さんだったが、「在日が民族の心に目を開く場を」に変わった。

 「分断の祖国へは帰らない」と決め、生涯、祖国統一を願い、「絶望の慟哭の代わりに民族の心に接して歓喜の声をあげてほしい」と切望していた鄭さん。1億5,000万円の私財を投じ、建物と蒐集品を財団へ寄贈した鄭さんは見事なまでにすべてをやり終え、高麗美術館開設から4カ月後の89年2月、帰らぬ人に。

 今、鄭さんの遺志は、理事長を引き継いだ夫人の呉連順氏や長男の鄭喜斗氏、上田正昭館長はじめ多くの人々によって守られ、開花している。

 高麗美術館研究所の片山真理子研究員(30)は「ここに勤務して5年程になるが、日朝の古代文化交流について初めて知ったことが多い。日本の民族、文化、国家の形成に渡来した朝鮮民族、文化が深く関わったことなど、日本人として学ばず、何も知らず生きてきたことが恥ずかしい。在日の方はもとより、多くの日本人にも来館してもらって、東アジア全体を視野に入れた朝鮮半島と日本の関係をもう一度とらえ直してほしいと思う」と静かに語った。

 美術館には来館者が感動を記すノートが置かれている。その中には日本国内、南北朝鮮はもとよりアメリカ、ドイツ、フランスはじめ世界各国の人々がさまざまな衝撃と感動を記す。そこにはまさに小さいけれど「キラリと光る美術館」にふさわしい胸が熱くなる言葉がつづられている。その声を紹介する。

 「東洋史を学ぶ南の留学生だが、この美術館はゆっくり観覧できてとても良かった。朝鮮と中国、日本との文化を比較できて楽しかった。朝鮮美術に繊細でこまやかな細工と大胆さが同居していることを実感して大変おもしろいと思った」

 「実家に帰ったようなホッとした空間。心のやすらぎを覚えた。地味だが、何か優しさを感じて、とても居心地がよい。子どもと来館したが、難しいかなと思ったら『ちゃんと僕はこれが好き』だと話してくれた。いつの日にか子どもが大人になった時、また、訪れる日がくれば嬉しい」

 「鄭詔文さんはすごい人。時も民族もはるかに越えて美しいものは美しく泣かしめる」

 「久しぶりに訪れて、熱い志で集められた朝鮮の美が静かに語る声に耳を傾けて明鏡止水の心境に至ることができた。心が迷うことがあっても、この美術館にブラリ足を運ぶと無私の心で初心にかえることができる」

 「30年ぶりに京都を訪れた。来館できて嬉しい。私の父も大陸から渡り、裂け目の文化の中でこの地で生を終えた。私もリタイア近くになってやっと血の中にあるわずかなうごめきを感じ、自らそれらを探し旅に出ようと思っている。懐かしい気分が溢れる高麗美術館だった」

 「私はニューヨークで生まれ、育った日本人である。小さい時から朝鮮人と仲良く遊んだ。小さい時から東洋人の友達が多く、朝鮮人、中国人、日本人…アジアがもっと仲良くなれるよう祈っている」

 植民地時代に渡日した1人の朝鮮人が、さまざまな困難を乗り越えて、心血を注いで蒐集した朝鮮の名品の数々。人が人間として生きる意味、朝鮮人としての生き方を真正面から問いかけ、その魂を揺さぶり続けていることを、「来館者ノート」は伝えている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.1.1]