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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 雨森芳洲(上)

 江戸期、朝鮮通信使は12回来日しているが、この通信使との接触という点で雨森芳洲(1668〜1755)ほど、接触回数の多さと接触時間の長かった人物は他にいない。また、世に現れた少なからざる芳洲に関する評伝、史伝の類を見るに、芳洲を以て、終始一貫、江戸期随一の朝鮮理解者(よい意味で)とするのが定評となっている。

 しかし、私はこのような雨森芳洲評価の定着の仕方にいささか疑問を持っている。確かに芳洲は対馬藩の儒臣として朝鮮との外交を担当し、朝鮮とは「互いに欺かず、争わず、真実を以て交り候」を「誠信と申し候」(『交隣提醒』)と、「誠信の交り」を説いた人物として特筆すべき存在である。

 だが、現役外交官として、正徳時、享保時の通信使と接していた時期の芳洲を仔細に見てゆけば、朝鮮に対する蔑視観と連帯観を一身に体現したかなり矛盾した側面を併せ持つ稀有の存在と思わざるを得ない。

 雨森芳洲は寛文8(1668)年、今の滋賀県伊香郡高月町、琵琶湖畔に生れた。父の清納は医者である。その祖は武士で、浅井氏についていたが、織田の浅井攻めの際、秀吉により亡ぼされた。芳洲の秀吉観は、故に、実に厳しいものがある。芳洲は父により四書五経をたたきこまれた。やや長じて京都に出、医学に励んだが、医業への疑問が生じ、やがて、儒者志望へと方向を転換する。京都は天皇の居処、後年、新井白石と国王問題で争うことになる種子がここで育つ。儒学で身を立てようと決心した芳洲は16、7歳の頃、江戸に出て、当時、ならぶものない大儒木下順庵の門に入る。

 順庵の師松永尺五は藤原惺窩の弟子である。惺窩が秀吉軍の朝鮮再侵時の俘虜たる姜に朱子学を伝授されたことはあまりにも有名な話だが、要するに順庵は朝鮮朱子学の精髄を極めた人物である。その木下門には当時の俊秀たちがひしめいていた。新井白石、室鳩巣、祇園南海、榊原篁洲、南部南山、松浦霞沼、三宅観瀾などである。芳洲はこれらの秀才たちと交わり、己の学業を大成させてゆく。そして元禄2(1689)年、師順庵の推挙で対馬藩に仕官する。22歳であった。芳洲と朝鮮とのいわば運命的な出会いである。

 徳川家康が関ヶ原以後、慶長8(1603)年2月、征夷大将軍右大臣となって江戸幕府を開いてからは、前政権豊臣氏の負の遺産、つまり朝鮮に対する二度にわたる侵略の清算を図ろうと考えたのは当然である。何よりもそれは、幕府の国内統治体制を確立するうえからも、隣国、朝鮮との国交を正常化する必要性に迫られていた。こうして家康の対朝鮮平和外交政策が動き出す。しかし、朝鮮との国交正常化を誰よりも強く望んでいたのは、朝鮮との関係回復に文字通り死活のかかっていた対馬であった。

 対馬は11回も使者を送り、朝鮮側の要求する被崇ゥ鮮人も返したりした。その呼びかけの真剣さに朝鮮は、日本の真意打診と探情のため、惟政(ユジョン)と孫文ケ(ソンムヌク)を対馬に送る。家康はこれを聞いて喜び、使節を本土によび、伏見城で接見する。惟政は禅僧で四溟堂(サーミョンダン)として有名な人物だが、伏見城で家康の国交正常化の意志を聞き、その思いの強さを知り、講和の件を大筋でまとめ、3400人の被崇ゥ鮮人を連れ帰ったので、交隣のことは大きく進み、1607(宜祖40・慶長12)年3月には正式に第1次の通信使(初期3回は、回答兼刷還使)が送られることになる。

 こうして、徳川新将軍の襲職ごとに通信使が送られることが恒例化し、その礼式も三代家光の第3次(1624〜寛永6年)の頃にはほぼ定着している。その江戸幕府の唯一の国交の対手、朝鮮に対する外交の窓口としての交渉および諸雑務を取りしきる対馬藩に雨森芳洲は儒臣として仕えることになる。禄高は200石、小藩対馬としては、思い切った高禄をはずんだものである。注目すべきは、芳洲はこの頃から本格的に唐(中国)語を長崎で、そして後に朝鮮語の学習を始め、両国語を完全にマスターしたことである。これは、当代きっての国際通になったことを意味する。

 元禄6(1693)年、芳洲は任地対馬に落着く。

 彼が朝鮮方佐役になるのは6年後である。

 次の六代家宣の将軍襲位時の正徳元(1711)年の通信使来日で、対馬、江戸間の往復に随伴することになるまでの13年間は、芳洲にとり、まさに朝鮮を知ることにのみ全精力を傾けた時期であった。

 彼は対馬と朝鮮間の難しい貿易実務に関する問題の処理にたずさわる一方、「倭語類解」「交隣須知」などの朝・日語辞典や朝鮮語教科書の作成にあたっている。これだけでも日本の文化進展に大きく寄与する一偉業といえる。(琴秉洞、朝・日近代史研究)

[朝鮮新報 2004.1.14]