高麗人参余話(26)−開城商人 |
最高の品質と権威をもった人蔘は開城産である。 その理由について開城の地質にはゲルマニウムが多く含まれているのでと言う人がいるが、本来人蔘は北緯34度から47度の間の地域に自生していたので気候、風土について言えば栽培人蔘が必ずしも開城でなければならない理由はない。開城人蔘の生い立ちについては開城の歴史、経済、文化の背景を理解する事が大事であろう。 朝鮮王朝になって盛んになった家蔘の栽培には専門的な技術と長期に亘る投資が必要であった。人蔘は成長に6年もかかり病原菌による被害にあうことが多いのでリスクの大きい作物である。これらの危険を負担できる資金力を持ち、またリスクを補償するに見合う利潤を確保できる商圏を持った商人の存在が必要である。高麗王朝に仕えた両班たちは「二君にまみえず」として朝鮮王朝に任官せず主に商業に携わった経緯がある。経営資源としては昔も今も人、もの、金、情報、ネットワークが大事であるが開城商人たちこそ人蔘栽培を推し進めた主体であった。 開城商人は広範囲で組織的な商業活動を通じて、国内で多様な商品を扱い、家蔘生産と利潤を独占し対外貿易の主導権を握ったのである。1896年開城地方の人蔘耕作面積は全国の47%を占め近郊の金川、長湍、豊徳を併せるとその比率は92%を超えていた。加工技術も発達し17世紀以前まではお湯に通したものを乾燥していたが、蒸造方式に転換し、紅蔘をつくるようになった。紅蔘を造るところを蒸包所と呼び、初めはソウルの京江にできたが純祖10年(1810)に開城に移設された。開城商人は家蔘の生産、紅蔘の製造、流通を一手に握った。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.1.15] |