〈人物で見る日本の朝鮮観〉 雨森芳洲(下) |
正徳年の朝鮮通信使問題は新井白石が主役である。白石は師順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊の侍講になるが、五代将軍綱吉は綱豊を後継者にし、綱豊は名を家宣と改めて、江戸城に入り、六代将軍を襲位する。これにより白石は家宣の絶大な信任のもとで幕政の改革につとめるが、その最初の「改革」が朝鮮通信使一行に対する待遇改悪の件である。白石は三代家光の頃に定着した礼式を簡素化し、日本(徳川幕府)の威信を高める方向で、多くの点で先例と異なる礼式を信使側にのませようとしたので、正使趙泰億をはじめとする信使側の大反発を招いた。 この行に随伴した雨森芳洲は、これらのいきさつと全過程を自らの目で見聞することになるだけでなく、いや応なくその渦中にまき込まれることになる。いかなる国の外交交渉も、国益のぶつかり合うに相違ないが、白石の礼式改悪方式はいかにも強引すぎた。しかし、白石は事前に朝鮮側の重要書物や官制に関する典籍を充分に調べたうえでの提案だったので、多くの点で朝鮮側は不満を示しながらも、白石の理詰の押しに屈した。 芳洲は、自分こそは日本の朝鮮通という自負があっただろうが、この時の白石には瞠目せざるを得なかったと思う。 芳洲は、朝鮮方佐役に就いた時から、一つには対馬藩の利害を守ること、いまひとつは幕府の意思を朝鮮信使側に浸透させる役割に徹することを至上課題と心に決めていたはずである。故に信使側とは旧例に従って事なく任務を果たしたかった。それを何と白石は旧礼を次々に破って朝鮮側にのませている。しかし芳洲は心中に不満を持ちながらもそれを公にすることはしていない。ただ一点、芳洲が白石の改革案の中で反対したものは、天皇とからむ国王称号問題だけである。これは対朝鮮の問題というより、国内問題の要素が強い。総じて芳洲は白石の学識、詩文に頭の上らぬ思いであったが、正徳時の白石には芳洲は威敬と驚きの念を持っていたのではないかと思う。 それがはっきり現れるのは、8年後の八代吉宗襲位の享保時の通信使来日の時である。この時の正使は洪致中であるが、何よりも製述官申維翰の紀行記「海游録」は日本語訳(東洋文庫、平凡社)もあり、一番有名である。もちろん、芳洲はこの時も、使行一行の案内で江戸への往還に随伴している。そして、この書に当時の芳洲が精細に描写されているのである。まず対馬厳原で、申維翰が慣例となっていた対馬藩主に対する拝礼拒否をめぐっての悶着がある。申維翰の言い分は、対馬藩主は朝鮮国王に臣下の礼を執っているから、自分と同格なので拝礼はできないというものである。 この時の芳洲の状態を「恚り、甚だしく、分明ならざること羊の声に似て、くどくどと駄弁を弄してやまず」と記し、「しこうて、争いを構え、禍いを造るの語あり」と、その迫真のケンカ腰に筆が及んでいる。これは一面、正徳時の新井白石のひそみにならったものと言える。白石は将軍の信使供応の時御三家が陪食していたのを、接待役の大名に改めたのに信使側で反発した時、「剣を按じて叱咤、殿柱震う」(祇園南海の詩)とあるように、刀を抜かんばかりにして、対手を屈服させたのである。申維翰に対する芳洲の態度は、どうみても白石のミニ版である。 次は帰途、京都の方広寺(大仏寺)での悶着である。信使一行が京都に着いた時、一行を方広寺の酒宴に招くことになったという。方広寺は豊臣秀吉の建立の寺、朝鮮侵略時に朝鮮人10万以上の耳鼻を切って埋めた耳塚もある。幕府は信使来日のたびに耳塚を見せて日本の兵威を使臣に刻みつけようとした。朝鮮側は、方広寺は秀吉の願堂、この賊はすなはち「吾が邦百年の讐」、と行くことを拒む。日本側は「日本年代記」なる怪しげな書を持ちだして、方広寺は三代家光の時に建てられたと強弁する。 この時の芳洲が凄まじい。「所なく怒りを発し、直ちに首訳と私闘をなし、〜その状、ほとんど剣を鞘より出ださんとす」とある。この時、申維翰は、芳洲のことを「狠人」(心のねじけた人物)と批判して、「君は読書人にあらざるか」と反論している。 この時の芳洲に「欺かず、争わず」の心構えはない。あるのはただ藩益、幕府の権威を守る所謂国益一辺倒の姿勢だけだ。 この9年後、雨森芳洲は日本の対朝鮮外交に関する画期的な著述を書き上げる。すなわち「交隣提醒」である。 その冒頭に「朝鮮交接の儀は、第一、人情、事情を知り候こと肝要」と書いている。この書は、長年にわたり対朝鮮外交の第一線で働いてきた芳洲の自戒をこめた総括でもあるが、日本の対朝鮮外交の基本を説いたものである。故に最後の章の「互いに欺かず、争わず」「誠信の交り」を心がけよ、は今日、ただ今でも人の心に有効な言葉として残るのである。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2004.1.21] |