top_rogo.gif (16396 bytes)

シンポ・パネルディスカッション「高句麗と古代日本」での発言から

 シンポ・パネルディスカッションの「高句麗と古代日本」(17日、有楽町朝日ホール)の司会を務めた大塚初重明治大学名誉教授はまとめの中で「日本列島の古代文化は、東アジア全域から眺める視点が要請される」と述べた。

 また、32年前に発見され、日本に古代史ブームを起こすきっかけとなった高松塚古墳壁画やキトラ古墳壁画と高句麗壁画との深い関わりについて、「古代朝鮮3国の中で建国以来、優勢を誇ってきた高句麗は、故地である鴨緑江の支流である渾江流域の桓仁付近から国都の丸都城と集安、さらに平壌に遷都して大高句麗へと発展していった。その地域の最新考古学情報を基礎に古代日本社会に深くかかわった高句麗文化について考えよう」と語った。

 そして、東北アジアで強力な力を誇った高句麗文化の特色は壁画古墳にあると述べ、「90基に達する壁画古墳は3世紀から7世紀までの約400年間にわたって、高句麗社会の風俗、習慣や信仰から天文にいたるまで人びとの精神世界を如実に伝えてくれる」と語った。

 また、古代日本文化や風俗には高句麗文化の大きな足跡があり、高松塚やキトラの古墳壁画にそれらが明確に表現されていると指摘。さらに日本各地に点在する積石塚や東海(日本海)地方の4隅突出形古墳、古代日本の文化や信仰、習慣などを考察する時、東アジアの視点からそれぞれ成り立ちを探り、一大強国であった高句麗との関わりで考えることが大切であると強調した。

 西谷正九州大名誉教授は、高句麗中期の都城があった集安では平地城かつ国内城としての丸都山城、広開土王(好太王)陵や角抵塚・舞踊塚をはじめ40基の陵墓群が世界遺産登録に申請中であるとして、最新の発掘調査と整備状況について次のように報告した。

 「国内城では市役所を城外に移転させ、礎石建物が検出された。西側城壁沿いに密集していた民家がすべて撤去され、城壁の全ぼうが現れた。また、太王陵については、『好太王』銘の刻まれた青銅器の出土によって、広開土王陵であることが確定的になった」

 さらにまもなく開始されるキトラ古墳発掘調査に関連して、高松塚やキトラ古墳の被葬者は誰かというディスカッションがあり、西谷名誉教授は6世紀半ばの日本と高句麗の密接な関連に触れ、「高句麗の先進技術者が倭と交流していた。その点から言えば、高松塚やキトラの壁画古墳は母を高句麗にして、父を、この時期に日本と深い関係を持っていた新羅として生まれたものだろう」と指摘した。

 また、「高句麗の壁画古墳と王陵」と題して発表した東潮徳島大教授も「この地は高句麗と百済とも深い関わりを持つ。古代日本の解明のためにも強大な国家を築いた高句麗文化の研究をいっそう進めるべきである。高句麗を世界に発信するためにも、世界遺産登録を実現させよう」と語った。

[朝鮮新報 2004.1.23]