高麗人参余話(27)−対馬文書 |
昭和初年(1926年)から朝鮮総督府が刊行した「人蔘史」では人工栽培について朝鮮では18世紀後半に始まり、中国では、それよりもさらに100年近く遅れて農業化されたと記されていて人蔘栽培はあたかも日本が初めて行ったかのごとく記している。だが果たしてそうであろうか。 享保4年(1719年)6月、幕府の当局者が対朝鮮貿易の窓口であった対馬藩に対して、人蔘の絵図を提出するようにとの申し渡しがあり、早速江戸の対馬屋敷から絵図が提出された(6月23日)という記録が残っている。専門の絵師による詳細な絵ではないが実物を見なければ描けない略図である。この絵には実をつけた三椏五葉の地上部とその下部にまっすぐ伸びた人蔘の根が描かれており余白には花も描かれている。正確さには欠けているが栽培人蔘のおおよその特徴をよく表す。 この対馬文書が示唆するところは少なくともこの時期までに朝鮮で家蔘の栽培が行き渡っていたという事である。山蔘の根は体つきが小さく、栄養をたくさん吸収するために根が横の方向に伸びてニウン(匹)の字の形をしているのが多いが、この絵は直蔘でひげ根がない。山蔘はひげのような細根が長くて多いのが特徴である。また年輪を重ねた山蔘には主根と支根の上段部に指輪をしたようなしわがたくさんある。一方、山蔘は実をたくさん付けないのにこの絵では16個もの実がついている。多分3年生か4年生の栽培人蔘を描いたものだろう。記録によると対馬藩は享保6年(1721年)に人蔘の成根3本を、さらに翌7年(1722年)には6本、同12年、11本、同13年、6本と年々幕府に献上している。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.1.23] |