〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 飛行士・権基玉 |
権基玉は、今から約80年もの昔空を飛んだ朝鮮の女性パイロット第1号である。 父の道楽による貧しい家庭環境の中、12歳になってようやく小学校に入学した彼女は、1917年16歳のとき、平壌の上空で行われたアメリカの飛行士アート・スミスによる飛行ショーを見学、自分も将来必ず飛行士になろうと夢見た。 小学校卒業後、平壌の祟義女学校に編入した彼女は、教員・朴賢淑の勧めで秘密決死隊「松竹会」に加わり独立運動に身を投じた。1919年3.1独立運動では積極的に活動、やがて逮捕され6カ月の実刑を被った。それでも1920年8月、平壌青年会女子伝道団を組織、全国を巡回講演しながら秘密工作を展開した。警察はついに再拘束令状を発給した。 初の女子入学 強まる監視のなか彼女は、乾鰯を積む木船に乗り上海へ脱出した。このとき彼女は少女時代から夢見た「私は飛行機に乗る勉強をして日本に爆弾を積んで飛んで行くんだ」という愛国心あふれる固い決心をした。 上海に到着した彼女は、3.1独立運動直後に亡命した臨時政府議政員孫貞道議長宅に身を寄せ、多くの朝鮮人学生が学んでいた抗州の弘道女子中学校に入学した。言葉の通じないなか、孤軍奮闘、粘り強い努力のすえ優秀な成績で卒業(1923年)した。 その後彼女は雲南空軍士官学校を志願した。当時中国には4カ所に航空学校があったが女子の入学は認められていなかった。 この学校の督軍であった唐継堯は彼女に問うた。「女が何のためにパイロットになるのだ?」。彼女は朝鮮の独立運動に参加するためとあっさり打ち明けた。唐継堯は親日行政を広げる身であったにも関わらず、「亡国の恨を抱き独立運動をやるという者だ。受け入れてやれ」と指示した。 それを聞いた校長は反対したが、事態は彼女の方に有利に傾いていった。彼女1人のために学校側は寄宿舎を建て、女性の食母(お手伝いさん)まで雇い便宜を図ってくれたのだ。 暗殺計画 当時、雲南空軍士官学校にはフランスから購入した飛行機が20台あった。そしてフランス人の教官2人が招聘されスパルタ訓練をさせていた。 彼女は男顔負けの忍耐と闘志で一生懸命操縦を習い、地上実習も立派にやってのけた。女の操縦士、それも国内で独立運動をやって亡命した朝鮮人女学生。噂は広まった。 警察は閔という朝鮮人スパイを校内に潜入させ、彼女の暗殺を企んだ。この事実を知った彼女は友達3人と共に閔を共同墓地へ誘いこみ射殺。この事件後督軍は彼女の身辺安全のため外出を一切禁じた。そのため彼女は校内だけで生活する身となった。 1925年3月、ついに彼女は雲南空軍士官学校第1期卒業生となった。卒業式の訓示で督軍はこう述べたという。「中国で飛行機に乗れる空軍女性将校を輩出できたことは、東洋における最初の快挙である」と。 卒業するや彼女は、臨時政府の紹介で馬玉祥軍指揮下の空軍将校として張作霖軍と闘った。 祖国のために 1928年27歳の年、彼女は同志、李相定と結婚した。夫は詩「奪われた野にも春は来るか」で知られる大邱出身の詩人、李相和、そして李相伯、李相旿の長兄で、日本で歴史学を専攻した独立運動家であった。 結婚した後も彼女は中国の中央空軍として大活躍、大尉となった。彼女は中国空軍に籍を置く一方、1932年上海虹口公園で起きた尹奉吉義士爆弾事件の時には金九から依頼された手榴弾の購入、それから安昌浩の理想の村建設事業にも積極的に協力した。 彼女の脳裏に焼きついて一時も離れなかったこと、それは祖国のために何を成すべきか、ただそれだけだった。 1945年、祖国は解放された。しかしその喜びは束の間、彼女のところに電報が届いた。母の訃報を受け帰国した夫が今度は脳溢血で倒れたという知らせであった。1947年、姑の死亡から1カ月後のことである。 1949年、彼女は中国空軍の籍から離れ祖国に帰った。帰国後彼女は南で年鑑発行人として出版事業にも従事するなど晩年まで活躍した。 ※朝鮮初の女性パイロットは朴敬元(1927年3等、1928年2等操縦士の資格を取得)と知られているが、中国で空軍学校を卒業した権基玉が実は朝鮮初の女性パイロットである。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※権基玉(1901〜1988) 平壌の生まれ。崇義女学校卒業。警察の監視を逃れ中国上海に亡命、抗州の弘道女子中学を経て雲南空軍士官学校を卒業。結婚後も中国の中央空軍で活躍。解放後1949年に帰国。南で出版事業などに従事。 [朝鮮新報 2004.1.26] |