高麗人参余話(28)−人蔘代往古銀 |
東京日本橋、三越本店の裏には日本銀行(日銀)本店があり、そのすぐ近くに日銀金融研究所 貨幣博物館がある。この博物館は日本および諸外国の貨幣約16万点を所蔵していて、そのうち重要なもの約5500点を厳選して展示してある。その展示品には宝永7年(1710)に発行された銀含量80%の人蔘代往古銀が含まれている。 江戸元禄時代、奢侈な将軍綱吉の浪費や災害などによる財政の悪化、また生糸、絹織物、薬品、書画などの輸入代金としての金銀銅の流出などで幕府は元禄8年(1695)と宝永3〜8年(1706〜11)に貨幣の純金銀量を大幅に減らした改鋳を実施した。 慶長丁銀は銀の含量が80%あったが質を落とした金銀貨をあいついで発行した。元禄丁銀では60%、宝永丁銀では20%にまで銀含量が落ちてしまった。人蔘貿易を仲介して輸入代金を丁銀で決済していた対馬藩は朝鮮商人たちから慶長銀に比べ質の悪い宝永銀の受け取りを拒否されたため、薬用としての人蔘輸入を名目に慶長丁銀と同品位(80%)の良質な丁銀の鋳造を幕府に願い出て、特別に許され鋳造されたのが人蔘代往古銀である。 人蔘代往古銀は長さが10センチくらい、幅が2〜3センチある大きな銀貨であるが、金銀貨が貴重であったこの時代に幕府が人蔘代往古銀を特鋳せざるを得なかったほど人蔘が必要とされていたことや輸入のための幕府の格別の努力をうかがい知ることができる。また、元禄時代綱吉が薦めた鍼灸術、漢方の普及が人蔘の普及にもつながったと推測される。このようにして日本から朝鮮に入った人蔘銀貨は1年に11万トンに達するときさえあった。これらの銀貨は朝鮮商人たちの貿易資金として人蔘と共に中国に渡り、中国の品物と交換された。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.1.30] |