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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 酒と酒道(1)

 民族に風俗がある。風俗とは、古くから行われている生活上のさまざまな習わしである。スッカラ、チョッカラ(スプーンと箸)で食事し、チマ・チョゴリを身に着け、チャンゴやカヤグムの音に風流を感じ、親孝行と兄弟愛を徳目とする朝鮮人の生きざまは、まさにこの民族の風俗そのものである。風俗は、民族人としての習わしでありしきたりであり、こびりついて離れないクセのようなものであるから、朝鮮人としての自己証明要素であり、アイデンティティーと言っても過言ではあるまい。今日から朝鮮の歴史風俗を訪ねる。民族性の喪失が問われている昨今である。古い伝統だからと軽く見てはならない。歴史風俗には知恵があり、我のあるべき姿を映す鏡があるからだ。

 朝鮮人は(日本人もそうだが)酒好きの民族である。中国の古い記録に酒好きの朝鮮人の姿がたびたび現れる。「後漢書」に「韓人大いに酒を好む」の記述がある。古い時代から「頭が賢く大声で大酒飲みであれば即ちこれ東方の民」という格言が中国にあった。「東方の民」とはもちろん朝鮮人のことである。

 朝鮮の歴代王朝は、こと酒に関しては寛大であった。王侯貴族や両班士大夫とともに一般庶民も日常的に酒を飲んだ。古今東西の国々で酒税を取らなかった国があったとしたら、おそらく唯一朝鮮の王朝だったのではなかろうか。高麗でも朝鮮でも酒に関する資料は多いが、税金を課したという記録はないのだ。そればかりではない。旱魃や大雨で凶作にならない限り酒造りを許した。

 この民族にとって大酒飲みは男であることの証のようなものだ。豪放、大胆、気風の良さという図式が酒飲みに成り立つ。もちろん、酔っ払ってくだを巻く大虎に対しても制裁を求めない。寛大であるのだ。

 朝鮮王朝の時代を通して名を馳せた酒豪が3人いた。世祖の時代の大提学(注1)洪逸童(ホン・イルトン)(?〜1464)、成宗の時代の右議政(注2)申用漑(シン・ヨンゲ)(1463〜1519)、中宗の時代の大司憲(注3)孫舜孝(ソン・スンヒョ)(1427〜1497)である。

 大食漢でもあった洪逸童は、毎晩の食事に、もち1皿、冷麺3杯、飯3杯、豆腐の汁9杯、蒸し鳥2匹、刺身大皿1杯を平らげたうえで、マッコルリ40杯を飲み干すという大酒飲みであったという。

 ある日、噂を耳にした国王がその飲みっぷりを見ようと、大樽の酒を彼に与えると、洪はいささかも動じることなくグイグイと飲み干して謝意を述べ、まったくふらつくこともなく仕事に戻ったと言う。死後、彼の墓には酒の悪臭が立ちこみ、十数年間消えることがなかった、と後世の詩人たちが詩に詠んでいる。

 申用漑は一人酒を好んだらしい。彼はほとんど毎晩、客が9人来るからと、9人分の酒を接客の間に通していた。ところが下女が部屋をのぞいてみると、9株の菊の盆栽に囲まれた主人が菊を相手に語り笑い、そして時には、紙に漢詩や時調をしたためて、熱っぽく文学論を交わしているのである。

 しかし、当の申はといえばまったく正気で、次の朝になると、下女にお客さんは無事に帰られたのか、と確認するのであった。

 朝鮮王朝の最大の酒豪は孫舜孝である。朝廷のなかで彼の大酒飲みを知らぬ者はなかった。彼は、「一斗の酒は、背負っては帰れないが、腹に収めれば帰られる」と豪語したが、その言葉は今も朝鮮ことわざ辞典に載っている。朝鮮の酒豪には優秀な人材が多かった。国王は前途有望な彼の身を案じて、日ごろから、3杯以上の酒は飲まぬよう「三杯酒戒」を命じていた。

 国王の命令に忠実であらねばならないのは百も承知。といって3杯の酒ではどうしようもない。そこで彼は思案して陶工を呼び大庖杯を造らせた。大庖杯とは、かぼちゃほど大きな杯という意味。一升を優に超える酒を入れてもあまりあるほどの大きさであった。酒好きの彼はこのようにして「三杯酒戒」の命令を忠実に守った、と史話は伝えている。

 彼の遺言はただ一言。死後に酒樽とともに葬ってくれ、ということであった。その遺言は国王の命令によって果たされた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

 (注1)大提学 朝鮮王朝の官職・弘文館の高級官吏、正二品
 (注2)右議政 朝鮮王朝議政府(内閣)の最高位の官職。領議政・左議政とともに国王を直接補佐する正一品
 (注3)大司憲 朝鮮王朝司憲府(検察庁)長官、正二品

[朝鮮新報 2004.2.2]