〈人物で見る日本の朝鮮観〉 佐田白茅 |
明治初年、政権の中枢で征韓論を首唱したのは木戸孝允であるが、この征韓論をいわば「草の根」の段階にまで押し拡げて、日本中を征韓論で熱狂させる役割を果したのが佐田白茅(さだはくぼう、名は素一郎、1832〜1907)である。佐田は九州久留米藩(有馬氏)士で、若い頃江戸に出て、5、6年昌平黌に学んだ。後、長州の尊攘論に加担した嫌疑で5年程、久留米藩の獄舎に幽囚される。明治維新となってその勤皇ぶりが買われ、新政府に出仕することになった。白茅は早くも明治初年に征韓建白書を政府に出したという。「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速かに手を容るるが宜しい」(「征韓論の旧夢談」)というものである。さらに翌2年にも同趣旨の第2回目の建白書を出した。これが利いたのか外務省も同じ考えであったのだろうか同年10月、太政官より、「朝鮮国へ出張仰せつけ候こと」という辞令を受けた。 ところで白茅の征韓建白書にある「朝鮮は応神天皇以来、義務の存する国柄」とは何を意味するか。応神は神功皇后の息子である。「神功皇后は三韓征伐で韓三国を朝貢国にし」たという説話を受けて、徳川幕府から統治権をとり戻した「王政復古」の今、国内統治権だけではなく、朝鮮への統治権も天皇親征の昔に戻すべきを図れ、ということにある。この主張は白茅だけのものではない。木戸孝允も明治元年閏4月、「朝鮮位は皇国版図に加へ申したく」と三条実美、岩倉具視あてに書簡を送っていて、この時期の征韓論者の真意図がここにあったことが知れる。明治新政府は、朝鮮の国書受取拒否は日本に対する侮辱として征韓論を煽る口実にしたが、はじめから、日本への服属化を目指した国書では、どちらが先に侮辱を加えたかは明白であろう。 ともあれ白茅は明治2年12月東京を出発、長崎を経由して翌年1月末対馬厳原に到った。同行者は同じく外務省出仕の森山茂と斎藤栄、そして長崎で医者の広津弘信を従者に加えている。彼らは2月22日、釜山に到り、倭館に滞在すること20余日、鋭意朝鮮関係での問題点を調査した。3月、帰国、連名で提出されたのが、「朝鮮国交際始末内探書」(「日本外交文書」3巻131〜138頁)である。この「内探書」では江戸時代の朝・日関係と、対馬の役割に不信を示し、その他の問題でも不備を指摘し、皇使を派遣して関係改善を図るべきを言い、また朝鮮の軍備にふれ、これは「本朝の古流に類したるもの」で問題にもならない、としている。そのうえで白茅、森山、斎藤の3人は、それぞれの立場で建白書を出している。佐田白茅にとっては第3回の建白書である。森山、斎藤建白書を詳論するゆとりはないが、要するに「書契」を下して3年、「皇」「勅」を理由に受取の拒否は皇朝を辱しむるもの、今や皇使を送って説得し、「万一、我に拒敵せば我れ彼を鏖(みなごろ)すとも万国公法(国際法)に於て何の辞柄あらんや」という乱暴なものである。佐田白茅の建白書は、「日本外交文書」記載の分は漢文(白文)で書かれているが、明治8年3月に彼が「征韓評論」と題する小冊子中に収めたものは、返り点をつけた漢文である。その要点は次のようである。 日本の書契(国書)の文字に難くせをつけるのは、「これ朝鮮、皇国を辱(はずかしめ)るなり」、日本は皇使を下して、その罪を問うべき、とする。「朝鮮は守るを知って攻めるを知らず、我を知って彼を知らず、その人、深沈、狡獰(わるがしこく、つよい)、固(こ)、陋(ろう)、傲頑(ごうがん)、これを覚(さと)せども覚らず、これを激すれども激せず。故に断然、兵力を以てここにのぞまざれば、即ち、わが用を成さざる也。いわんや朝鮮、皇国を蔑視」しているとして、「君、辱れば臣、死す、実に天を戴かざるのの寇(あだ)なり。必ずこれを伐(う)たざるべからず。〜速(すみやか)に皇使一名を下し、また、大将一名、少将三名を撰び、三十大隊を引率して、」もし降伏しないならば「皇使、忽ち去り、大兵、にわかに入る、その一少将は十大隊を卒い、鴨緑江を溯(さかのぼ)り、咸鏡、平安、黄海の三道より進む」。こうして追い詰めたら「必ず、五旬(註:一旬は10日)を出でずしてその国王を虜(とりこ)にすべし」というものである。 江戸後期、佐藤信渕の朝鮮攻略論は数十万の兵を要したが、明治3年の佐田白茅の朝鮮征服論は、30大隊でことが足りる、としている。エラク舐められたものだと、腹立たしい思いの方は、この24年後、日本軍のソウル王宮占領事件で、本当に国王が虜になった事実を思い返してもらいたい。白茅の征韓建白書は、政権中枢では書生論として片付けられたが、その朝鮮出兵論は幾多の人々の脳髄を刺激し、草の根征韓論ともいうべき、狂熱に広汎な人々をまきこむ一大素地を作ることになる。 朝鮮蔑視思想の根は深い。ここで付記すべきは、あの白茅ら3人が報告した「朝鮮国交際始末内探書」の最後の項は「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」となっている。ここでの竹島は今の欝陵島であり、松島は独島、日本名竹島のことである。無類の征韓論者白茅も独島は朝鮮領と認識していたのである。そして、明治政府もこれを否定しなかった。(琴秉洞、朝・日近代史研究) [朝鮮新報 2004.2.4] |