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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 酒と酒道(2)

 朝鮮を代表する酒は3種類。マッコルリ、清酒、焼酎である。この3種類のうち最も飲まれたのがマッコルリである。国王から民百姓にいたるまで、地位や階層にかかわらず広く飲まれてきた。オリジナルの民族酒といって間違いあるまい。

 マッコリは発酵酒である。米や麦などの穀類を蒸して冷まし、それに麹を混ぜて適度の温度で数日間寝かせて発酵させたものである。どろどろと濁ったところから「濁酒」とも呼ばれているが、アルコールの度数は低く、さわやかで口あたりもよく、きわめて酔い心地のいい「清涼飲料酒」である。

 この酒がいつ頃から飲まれたのかは定かではないが、およその検討はつく。高句麗の建国神話に酒の話が載っている。天帝の子・解慕漱が、川辺で水遊びをしていた水の神の娘・柳花を酒で誘惑しておびきだし、自分の妻に娶ったという話である。この民族の開闢史の1ページ目が酒の話。酒で女性を誘惑して妻に娶るとは尋常ではないが、この誘惑に使われた酒こそマッコリの元祖であったものと思われる。その確かな根拠は古い文献にある。

 3世紀に書かれた中国の史書「魏誌東夷伝」には次のような記録がある。

 「高句麗人は醤醸の技に長ける」

 醤とは味噌や醤油のこと、醸は酒を醸し出す技のことである。この記録は、高句麗においては、穀類にカビを生やして造る麹による発酵食品が、すでに一般に広く普及していた事実を示すものである。柳花が誘われたあの酸味があって甘い香りの酒は、女性も好むマッコルリ特有の風味である。ほろ酔い気分に乗せられてのアクシデントであったのであろう。

 酒の話は他にもある。「魏誌東夷伝」はまた次のようにも書いている。

 「扶餘は毎年10月に天を祭る儀式を行った。国民は連日連夜集まっておおいに酒を飲み歌舞をおこなったが、この祭天の儀式を『迎鼓』といった」

 扶餘と同じ風俗は高句麗や馬韓にもあった。村中の老若男女が群れをなして銅鑼やチャンゴを叩きながら、練り歩くようにして歌い踊ったのであろうが、その光景は今にも伝わる朝鮮の伝統芸能農楽舞の原風景であった。農楽には酒がつき物である。この祭天の儀式に飲まれた酒もやはりマッコルリであったはずである。それ以来マッコルリは千数百年のあいだこの民族によって飲みつづけられてきた。

 マッコルリを好んだのは朝鮮人ばかりでない。マッコルリが海を渡って日本に伝わるのは応神天皇の時代である。伝えたのは百済の人・須須許利。酒の醸造に通じた彼は良酒を製造して献上した。その酒に酔いしれて作った天皇の歌が「古事記」に見える。

 「須須許利が醸みし御酒にわれ酔いにけり」

 マッコルリがよほど美味しかったのだろう。ほろ酔い気分でにんまりと微笑む酒好きの天皇の顔が目に映るようだ。

 麹による発酵酒が朝鮮からの渡来品であることはいまや定説になっている。ワインやウィスキーが産地の言葉であるように、日本のサケも産地国・朝鮮語の「サカ」に由来する。「サカ」とは朝鮮語で発酵するという意味である。

 マッコルリに次ぐ酒は清酒である。

 清酒はマッコルリ同様の発酵酒であるが、その名のとおり、澄んで透明になった酒である。その製法はマッコルリに似ているが、もち米を材料に小麦麹を2、3段と重ね、醸造したものの上澄みだけを用いた酒である。

 日本酒に多くの銘柄があるように清酒に銘柄は多い。地方と家庭によって製法が異なり、味と風味に微妙な違いが生まれるのである。なかでも銘酒と呼ばれるものに「法酒」がある。新羅の古都慶州の寺院に発するものといわれる。

 「法酒」は新羅の王侯貴族が好んで飲んだらしい。当時、曲水という酒宴が宮廷の鮑石亭で行われていた。朝臣が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前に過ぎぬうちに、詩歌を詠じ杯を取り上げて酒を飲む遊びである。この時使われた酒はもちろん天下の銘酒「法酒」であった。

 「法酒」は朝鮮王朝の時代に、王室と文武百官や外国の貴賓のためにと、製法に改良を重ねられた。それは、もち米に菊花と松の葉を入れて、100日間土中に埋めて発酵させるという、念入りの逸品であった。「法酒」は長らく門外不出の酒であり続けたが、朝鮮王朝の末期ごろからソウルの中産層にもてはやされ、それ以後は庶民向けの高級酒になって現在に至っている。

 マッコルリと清酒が朝鮮古来の発酵酒であるのに対して、焼酎は外来の蒸留酒である。

 蒸留酒の原産地はペルシャであったらしい。蒸留の技術は、十字軍の遠征で12世紀にヨーロッパに渡ってぶどう酒を蒸留したブランディーを生み出し、アジアでは、蒙古から高麗に伝わって焼酎になった。焼酎の原料は米、麦などの穀類である。蒸した穀類に酵母を混ぜて、25度ほどの温度で発酵させた後、加熱、蒸留して造るのである。

 高麗の焼酎は、はじめは薬用として用いられた。その後、酒精が純粋であること、度数が高いこと、悪酔いしないことなどの理由から人気が高まり、伝統酒とともに庶民の家庭でも造られてきた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.2.9]