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〈生涯現役〉 朝鮮の土の香りがする舞踊を求めて−任秋子さん

 圧制と過酷な受難にうちひしがれていた暗黒の時代、朝鮮民族に生きる希望と勇気を与えた芸術。不世出の舞踊家崔承喜の舞台は、人々の脳裏にこのように記憶され、衰えを知らぬ生命の輝きを放っている。

 今年舞踊生活50年を迎える在日の朝鮮舞踊と振り付けの草分け任秋子さんの舞踊との出会いも、伝説的な崔承喜の存在によって導かれたものだった。

川崎で空襲にあう

 1936年、名古屋に生まれた任さんは、日本の敗色が濃厚になった45年初め、故郷への引き揚げの支度をして、両親に連れられ、列車で川崎の大叔父宅へ別れのあいさつに向かっていた。

 「ところが、空襲が激しくなって、列車の運転も打ち切りになり、命からがら大叔父の家に逃げのびて、結局、そこで荷を下ろし、祖国解放を迎えた」。この運命のいたずらが、後に少女を朝鮮舞踊へと開眼させていく。それからまもなく始まった寺小屋のような朝鮮学校(現在の川崎市溝ノ口にある南武初級学校)の学芸会でいつも喝采を浴びて踊る任さんの姿があった。

 そんな姪の踊りに目を止めた叔父は本格的に朝鮮舞踊を習ったらどうかと熱心に勧めた。「一度観た崔承喜の舞台に心を揺さぶられた叔父はその印象について、踊りと血管のすべての中に、民族愛がほとばしり、その温かい民族の血潮が強い原動力となって、植民地下に生きる同胞たちに『諦めるな、生きよ!』と励ましているようだったと私に何度も語っていた」。

 単に美しいだけではない舞。激しく心の奥底を揺さぶる深い民族性。そして時代と国境を越えた排他的ではないのびやかな魂のふるさと。崔承喜の踊りに魅せられた叔父の話に10歳の任さんはいつの間にか虜になっていった。

 しかし、まだまだ芸能への偏見が強い時代。任さんが「朝鮮舞踊を本格的に習いたい」と打ち明けても、父は烈火のごとく怒り許してくれない。「踊りは酒席の添えもの、妓生がやるもの」と取りつく島もない。困った任さんは叔父に口添えを頼み、やっと許しを得た。その代わりに父から一つの条件が出された。「どうせやるなら、崔承喜のようなすばらしい『朝鮮の舞姫』になりなさい」と。

 民族心の強い父は、酒を飲むと故郷を思い涙を流しながら「アボジは日本には勉強に来たのに、徴用に取られ、酷使された。本当は金日成将軍の下に駆けつけて、祖国解放のために戦いたかった」と述懐するのが常だった。父の悔し涙は、娘の心をまだ見ぬ故郷への愛で浸していった。

「魔物にとりつかれ」

 東京朝鮮中高級学校入学とほぼ同時期に崔承喜も学んだ自由ヶ丘の石井漠舞踊研究所に通うようになった。幸運にも家の側を通る東急田園都市線が研究所と朝鮮学校を「踊りのレール」で結び、少女の夢を育んだ。レッスンに明け暮れる日々が以降半世紀続く。

 「まるで舞踊という魔物に取りつかれた」かのように、任さんは創作舞踊、クラッシックバレエ、モダンバレエ、民族舞踊などジャンルを問わず貪欲に吸収していった。

 朝鮮中高級学校では南から密航し、一時日本に滞在していた鄭舞燕さんから朝鮮舞踊の手解きを受けた。人前で踊る機会も増え、朝鮮舞踊だけでなく、イタリアオペラの来日公演の舞台にも立った。

 「でも、何かが違った。青春の、体の五感が叫び声をあげるような民族の踊り、力、その無限なエネルギーのすべてが、私にはまだ足りなかった」。独創的であろうとする苦悶が任さんを苛んでやまなかった。

 今でこそ、朝鮮民主主義人民共和国の洗練された舞踊をいつでも学び、時には祖国の舞踊家に師事することもできるが、当時はテープ一本、本一冊すら海峡を越えるのが困難な閉ざされた時代。

 そんな時、南から来ていた崔承喜ゆかりの舞踊家趙沢元さんと出会った。李承晩政権に追われる身だったが、異郷で何とか朝鮮舞踊の神髄を身につけようと格闘する任さんを見込み、伝統舞踊を伝習した。そんなある日、任さんは師からヨーロッパ、米国公演への誘いを受けた。あこがれの芸術の本場へ。20歳の任さんの胸は高鳴った。

 だが、当時朝鮮籍では外国に出るのはほぼ不可能。娘に父は言った。「民族を捨てるくらいなら踊りなんか捨ててしまえ」と。この強烈な一喝が任さんの迷いを断ち切った。

 父の激しい怒りは、任さんの中の眠っている「何か」を揺さぶった。それは技術とか、踊りの型ではない、それ以上に大切な「誰にも譲れぬ朝鮮人のプライド」だった。ヨーロッパ行きを断念した任さんに師はこう諭した。「もう、君に教えることはない。君と私は進む道が違う。君は信ずる道を進みなさい。私も陰ながら応援を惜しまないよ」と。

 決心を固めた任さんは翌年、「任秋子朝鮮舞踊研究所」を旗揚げ。57年、21歳の旅立ちだった。この朗報は同胞社会を瞬く間に席巻、朝鮮舞踊を愛する女性たちが競って門を叩いた。たちまち門下生は100人ほどに膨れ上がった。

帰国第1船迎えて

 充実した日々。一方その頃、在日同胞帰還事業の熱気が日本各地に渦巻いていた。59年12月には、ついに帰国第一船が降りしきる雪の中、新潟埠頭に着岸。

 「あの日のことは忘れもしない。巨大なソ連船の遠影をはるかに見ながら寒風の中、薄いチマ・チョゴリに身を包んだ私たちは、歓迎の踊りを始めた。雪が積もり、足はびっしょり濡れて、手足は冷たく、全身は凍えるようだった。私たちは余りの寒さに感覚を失っていたが、『祖国』を間近に見る喜びと興奮でいっぱいだった」

 帰国船の往来は、祖国の息吹と朝鮮の躍動する舞踊の消息をもたらすことになった。崔承喜が書いた手引書「朝鮮舞踊基本動作」が日本に届き、61年には基本動作を収めたフィルムが平壌から送られてきた。

 62年、任さんの研究所は解散、在日朝鮮中央芸術団に加わってその舞踊部の中で新たなスタートを切った。そして、この頃から帰国船の中で祖国の舞踊家に在日の舞踊家数人が直接習う道が開かれた。「『扇子の舞』『巫女の踊り』『溶鉄が流れる』『寺堂の踊り』『天女の舞』など、当時、世界青年芸術祭で金賞に輝いた夢にまで見た『幻の作品』を次々に習った。その時の喜びは言葉には言い尽くせない。言葉より雄弁な祖国の温もりだった」。

 「長年探し求めていた本物」にようやくたどりついた無上の喜びが、任さんを包んだ。「近代舞踊の基本的基礎の上に花開いた朝鮮舞踊は、世界の舞台芸術の中で最も洗練されたもの。一日も早く習得して、同胞たちに民族の香りを届けたいと痛切に思った」。

「孤独な闘い」の日々

 65年、任さんの情熱と研鑽に対し、初の功勲俳優称号が授与された。

 この年にはプライベートな生活でも喜びが重なった。神戸中高の教員だった鄭利信さんと結ばれ、頼もしいパートナーを得ることになった。29歳。

 「夫は大変だったと思う。当時は年200回ほどの地方公演もあり、半年間家を離れるのは普通のことだった。夫と実家の母、姉妹たちが、本当によく子どもたちを世話してくれた。感謝してもし尽くせない」と任さん。97年、金剛山歌劇団を退団するまで約5000回の公演をこなした。夫はそんな妻を公私共に静かに支えてきた。

 振り返れば泣いた日もある。ある日、高3の息子の一言が胸に突き刺さった。

 「オモニ、もうそれだけやれば十分じゃないか。アボジと俺たちにいつまで迷惑かけるんだ」

 その時、夫は息子の心に向き合い「今はつらい時もある。我慢しなくてはいけないこともある。でも、いつか、オモニを誇りに思える時がきっと来るよ」と諭した。

 朝鮮舞踊の高峰をめざして「孤独な闘い」を続ける妻を理解すればこその言葉だった。

後進の指導に心血

 74年に初めて祖国訪問。あまりの感激に船から降りてすぐ朝鮮の大地にぬかずき、土をまず手に取った。今でもその土は任さんの部屋に大切に置かれている。「民族舞踊は土の匂いがしてこそ本物だと思うから」。

 金日成主席と金正日総書記が観覧する舞台にも立ち、人民俳優の称号も得た華やかな芸歴。現在は任秋子民族舞踊団を設立し、後進の指導と作品の創作に心血を注ぐ。そんな日々を潤してくれるのは、孫の麗奈ちゃん(8)。「将来はハルモニのような舞踊家になりたい」とキッパリ。

 「踊りは民族の心を表現するものであり、私の人生そのもの。毅然と生きてこそ、踊りが輝く。若い人たちには、是非そのことを伝えたい」。今なお現役の、舞踊人生一筋の心意気。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.2.10]