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小説「東医宝鑑」成る−その後の許浚

 この小説は南朝鮮で300万部を超える大ベストセラーとなった長編歴史小説「東医宝鑑」(上中下巻)の日本語訳「許浚」(上下巻=朴菖熙訳)の完結編に当たる。

 菊池氏は42年岩手県盛岡市生まれ。明治大学商学部卒。02年、結書房発足に参加。93年からは「韓国太平洋戦争犠牲者遺族会」の裁判を支援してきた。

 小説は、ほぼ450年前に朝鮮の地に生まれ、不朽の高麗医学の名著「東医宝鑑」を遺した名医・許浚を描いたものである。原作者の李恩成氏が1988年に死去したため、小説は許浚が「東医宝鑑」を著す直前に未完のまま終わっていた。

 厳しい身分差別と闘い、数々の艱難辛苦を越えて、医の道をきわめ、ついに世界最高峰の「東医宝鑑」を完成させた許浚の業績は朝鮮民族すべての誇りでもある。

 小説では、人間と人間との熱い格闘、師と弟子の魂の交流、医師と患者の病克服のための壮絶な死闘が繰り広げられる。人間の全存在をかけた重厚な人間愛の物語として仕上がっている。

 本書を読むうえで忘れてならないのは、朝鮮王朝時代の厳しい残酷な身分差別である。この身分制度は、許浚の出生が庶子、卑賤身分の妾の子、ということから生涯、許浚に苦しみを背負わせることになる。飢えに泣き、病に苦しむ民衆。激しく揺れる時代のルツボの中で、厳しい身分差別に抗しながら医の倫理と真実の愛を求めてやまない許浚の高潔な姿が浮き彫りになるのだ。無残な差別は社会の差別観念を拡大再生産しながら、20世紀半ばまで続いた。本書に記述されるハンセン病やペスト患者への歪んだ偏見は、現代においても社会の闇の中で永らえ続けている。病と同時にこの身分差別と闘い抜こうとする許浚の不屈の精神力と忍耐は現代を生きる人々にも深い感動と共感を与えてくれるだろう。

 「東医宝鑑」は当時の医学のあらゆる知識を網羅した臨床医学の百科全書である。83種の古典方書と漢、唐以来、編纂された70余種の医方書が引用されている。「東医宝鑑」の刊行は朝鮮本国はもとより、中国、日本、ドイツ、ヨーロッパ諸国にも多大な影響を与えた。中国では1763年に初めて刊行されて以来、今日まで25回にわたって、30余種の異なった版本が刊行されている。一方、日本では1662年、江戸幕府が使節団を朝鮮に派遣した折に同書を求めており、それを元に1724年、1799年、1984年に、官本として出版、広く普及させた。

「許浚」のあらすじ

 朝鮮半島北部平安道竜川で、両班の父と、両班から賤民に落とされた母孫氏との間に生まれた許浚は、自らの賤民という身分を呪っていた。20歳の春、許浚は人の目を隠れるようにして暮らす父娘と出会う。両班である娘の父は、無実の罪で流罪に処せられていた。そして、持病を治したい一心で名医柳義泰を探していた。

 その娘、多喜の看病もむなしく父は他界する。悲しみにくれる多喜をよそに、許浚は、医者探しから埋葬まで骨を折る。そんな許浚に多喜も好意を感じ初めていた。

 許浚は決断を迫られていた。父の庇護のもと賤民として暮らすか、あるいは父との縁を切り竜川を離れ、新しい人生を切り開くかの選択であった。それは、厳しい身分差別から逃れる、免賤の道でもあった。許浚は新しい人生を選び、旅立ちの前に多喜を花嫁として迎え入れた。許浚と多喜、母孫氏は、父の友人である県監をたずね、はるか南の慶尚道山陰県までの長い旅にたつことになった。

 苦難のすえ山陰に辿りついたものの、旅の疲れで孫氏は体調をくずす。宿の女将のすすめで、医員の診察を受けることになる。その医員こそ、柳義泰であった。柳義泰にふかく感ずるところのあった許浚は、入門を願い出てゆるされる。

 柳義泰の医院に住み込んだ許浚は、智異山での薬草採りに明け暮れる。薬草採りと、厳しい医術の習得。入門から7年目のある日、師匠の柳義泰から、昌寧の高官・成大監の家へ出向き、その夫人の容態をみるよう指示がでた。許浚の治療で、明日をも知れぬふうであった夫人の病が治る。御礼の数々の贈り物とともに許浚は、成大監直筆の内医院採用試験を統轄する、都提調宛の推薦状までもらった。

 山陰へ帰った許浚を待っていたのは、柳義泰からの破門通告であった。柳義泰は、「医者のうち、その第一を心医と称する。心医とは、相対する人をして常に心を安らかにさせる人格の持ち主である。その医者の目の色に見入っているだけで、病人は心の安らぎを感じる。病人を真心からいたわる心がけがあって初めてその境地に達しうる医者、それが心医なのだ」と説いていた。内医院への推薦状という僥倖をよろこぶ許浚は、柳義泰にとって外道にほかならなかった。

 破門により苦悩する許浚であったが、自力で医員取才を目指す。きっかけは、柳義泰の親友、金民世、安光翼というかつて内医院の医師であった。2人の壮絶な人生を知ったこと、また免賤の道は御医になること、と覚ったからであった。

 金民世は、内医院で将来を嘱望された医員であった。それが一人息子吉祥を、患者に殺害されるという不幸に遭遇する。金民世は激情から、その患者一家を仇として4人を殺害する。その場に居あわせず、吉祥の衣服を着て出てきた仇敵の子息に、人間の心を取りもどし号泣する。金民世はその子をわが子とし、僧侶となり、安点山でハンセン病患者の救済に生きていた。

 安光翼は、人体を解剖し臓器を検証したいという思いから、墓をあばこうとする。その手伝いをさせられたのは、入門を許された許浚家族に、家を提供した具一書であった。具一書は白丁出身であった。解剖の目的ははたされなかったが、具一書はこのため山陰から逃亡することを余儀なくされる。また、安光翼は、王子の病気の治療に自分の剖術に固執したことがあった。王室では禁忌の傷口への執刀をはたす。それが発覚してしまい、杖殺の刑にあう直前、王子の病気がなおる。これで刑は許されるが安光翼は、愛する宮女鄭氏を背負って王宮から逃げだし、金民世とハンセン病患者の救済にあたっていた。

 柳医院からは道知と林五根、道知の付き添いの相和が取才のため漢陽に向った。

 漢陽への道中の宿は、医員取才の受験者で一杯だった。その宿に、貧しい夫婦者が父を診てくれと医員たちに頼みにくる。道知をはじめ医員たちは断るが、許浚はすすんで診察を引き受ける。許浚の村での治療を知った貧しい病人たちが、そこへわれもわれもとおしかけ大混乱になる。これで漢陽への時間はすっかり失われてしまった。

 治療で遅れた時間をとりもどさなければならない。許浚は漢陽への道を急いだ。ところが、宿の下働きの万石が漢陽への近道といつわって許浚を、自分の家へ連れこんだ。許浚はそこで、その老母の眼疾を治療することになる。治療を終え道をいそぐ許浚のために、万石は馬を盗んできた。これがかえってあだとなり、万石と許浚は鎮川の官衙に捕らえられる。許浚の診察を受けた村人たちがそれを知り、大勢で官衙に放免を願い出た。官衙の県監はだれであろう、多喜の元婚約者、金尚起であった。許浚は放免され、金尚起の貸してくれた駿馬で道を急ぐが、取才試験には間に合わなかった。2日後に発表された取才試験合格者の中には、柳道知の名前があった。

 落胆して帰郷した許浚であった。しかし、受験よりも治療を優先した許浚に、柳義泰は心医の資質をみて破門を解く。そればかりか柳義泰は、取才試験に合格したものの貧しい病人を見捨てた柳道知に激高し、息子・道知を義絶する。柳道知は山陰を去っていった。

 あるとき、柳義泰は医院での診察を許浚にまかせ、安点山に金民世と安光翼を訪ねていった。金民世は、柳義泰の体に反胃(胃癌)を発見する。柳義泰はすでに知っていることであった。許浚に自分たち以上の優れた医員としての素質を見出した柳義泰は、密陽の天皇山の時礼氷谷で、自らの遺体を許浚に解剖させ、最後の教えとしようとしていた。柳義泰は自刃し、許浚は安光翼、金民世とともに、師匠の遺体の解剖をはたす。

 密陽の天皇山から戻った許浚は、翌年、29歳の年に取才に首席で合格する。見習期間を終えた許浚が配属となったのは、内医院の医員たちの敬遠する、貧民のための恵民署だった。配属は、内医院の最高権力者楊礼寿の私怨によるものであった。楊礼寿はかつて、許浚の師柳義泰と鍼の腕を競い、敗北し恥辱をうけたことがあった。許浚はそのような私怨など意に介さず、恵民署の勤めに精勤していた。そんな許浚を見つめる人々の中に、恵民署の医女の美史の姿があった。

 国王の愛妾恭嬪の弟金丙祖が顔面マヒの病にかかり、御医楊礼寿がその治療にあたるが失敗する。恭嬪の依頼で、許浚が金丙祖の治療にあたることになる。

 許浚は金丙祖の健康を損なっている原因、初期の反胃を根本から治療しようとした。このため、見た目には一向に改善されない。許浚の治療に反抗的な金丙祖は、治療上の指示に従わない。恭嬪もあせりをみせはじめ、許浚に病状がよくなる日数を約束させる。約束の日になっても金丙祖の症状はよくならなかった。違約をたてに、楊礼寿は刑として、許浚の手を切り落とそうとする。そこに、金丙祖の快癒がつげられる。

 許浚は医術の先進地明国へ行きたいと願いでて、実現する。許浚の明国行きの目的は『本草綱目』の著者李時珍に会うことだった。明は医療の最先進地域であり、医書は垂涎のまとであった。目的ははたせなかったものの、帰路で見た祖先のさまざまな遺跡は、許浚に朝鮮民族のための医術の研究という、あらたな目的を見つける鍵となった。平壌の一帯が疫病の瘟疫に襲われたことがあった。許浚は、その地域で招集された医員たちとともに必死の対策をとる。梅の実が有効な治療薬とわかり、瘟疫の感染も収まった。

 許浚たちは再び内医院の生活にもどったが、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵)が起こる。日本軍は漢陽に迫ってきた。人々が漢陽を逃げだすなかで、王家も三手に分かれて北へ避難することになった。避難に、許浚は恵民署の各種文書を持って行くことを主張する。願いは聞き届けられず、ほかの医員にも断られる。ひとりで恵民署の文書を持ち出そうとする許浚に、美史が協力を申しでる。漢陽に火が放たれた。それは日本軍の仕業ばかりではなく、朝鮮民衆の中の賤民と呼ばれる人々によるものでもあった。

 許浚を待っていた母孫氏と多喜に、医員である自分がとらねばならぬ道を語り、後事を息子・謙に託して家族を振りきるように国王の後を追い、臨津江を何とか渡る。河を渡ったところで、水を汲む許浚の後を追った美史は、足を滑らせ、助けた許浚の手を強くにぎりしめる。(朴日粉記者)(「許浚」あらすじは菊池三之介氏のまとめ)

 「許浚」上下巻(各1900円+税)。結書房発行、桐原書店発売。申し込みは桐原書店へ。〒166ー0003東京都杉並区高円寺南2―44―5。TEL 03・3314・8181、FAX 03・3314・4469。

[朝鮮新報 2004.2.18]