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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 酒と酒道(3)

 朝鮮の王朝が酒造りに寛大であったのは、この民族にとって酒(マッコルリ)が生活必需品であったからである。酒は一般的には香りや匂いや刺激を得るための嗜好品である。しかし、朝鮮人にとって酒は、一義的には栄養の素、活力源であったのである。

 朝鮮王朝初期の農書「矜陽雑録」には、酒を鍬や鋤のような農具とともに農作業の必要品目に上げ、農民にマッコルリを携えて野良仕事に出かけるよう勧めている。農作業の合間、昼どきの休み時間にどんぶり一杯のマッコルリで喉をうるおし、麦飯とキムチをほおばるのが朝鮮農民の習慣であった。

 マッコルリには五徳がある。酔いが深くないこと、早く醒めること、寒さに耐えられること、空腹がしのげること、そして、働く気力を高めることである。「マッコルリ一杯でお腹が太る」という格言もある。豊富なたんぱく質とビタミンと乳酸菌が、農民たちに活力をあたえ、彼らの健康を支えたのである。

 朝鮮王朝の末期に来朝したヨーロッパの宣教師が、昼時の農村のこのような光景を目にして、「朝鮮の農民は昼間から酒を飲む怠け者」と、その旅行記に書いているが、それはまったくの誤解である。農民は労働意欲があるからこそ活力の素であるマッコルリを飲むのである。

 朝鮮王朝第21代英祖王は農民たちから名君としたわれた人物であった。彼の時代は凶作の年が多く、毎年飢えから人々を守るために禁酒令が発せられた。名門の両班の家であっても例外は許さなかった。酒を売りさばいてひと儲けしようものなら、処刑して西大門の門前に首をさらした。王室の宴会も禁じられ、国王みずから範を示すと断酒を決めて実践した。しかし、このような禁酒令のさなかにありながらも、国王は野良で働く農民と訓練を終えて軍営に戻る軍隊に対しては、例外的に禁酒令の対象からはずし、彼らに飲酒を許したのである。農民と軍隊にとって酒は活力の素であったからなのだ。

 朝鮮王朝の時代にもっとも酒を多用したのは両班であった。両班は中央、地方の官僚として君臨するとともに、地方の大地主、在地支配勢力として国家の行政機構を支えた人たちである。経済的に余裕があり、汗をかいて働くことのなかった彼らに、酒は交友関係でなくてはならないものであった。

 朝鮮の飲酒文化を酬酌文化と呼ぶ。酬酌とは互いに勧め、酌を交わしながら飲む酒のことである。これは、ヨーロッパの自酌文化や中国の対酌文化とは明らかに異なる、朝鮮独自の酒法である。

 朝鮮人にとって酒は人と交わるための潤滑油である。とくに、同姓、同郷、同族、同門、同期の人々は、出世と勢力拡大のバックボーンであったから、両班たちは日ごろから、客を迎えては酒でもてなし、飲み交わしながら情を温め、信義の盟約を誓って飲み干していた。

 彼らは酒を霊薬とも呼んだ。酒興が高まれば宴となるが、歌舞はもっぱら妓生にまかせ、沸々と湧き上がる詩情を紙にしたためた。宴会場は詩作の場に転じて、酒の香りの中で名作が一首、二首と創り出される。酒はまさにインスピレーションを促す霊薬であったのだ。

 高麗の文人・李奎報は酒のない席では詩を書かなかったという。また、朝鮮王朝の最高位の官僚であり文人でもあった鄭徹(1536年〜93年)は、酒こそ最愛の友であると言いながら、時調「将進酒辞(チャンジンチュサ)」で次のように詠んでいる。

 飲もうではないか、一杯そしてもう一杯
 花を折って数を足し、尽きることなく飲もうでないか
 人生は短くはかないもの、黄泉に酒などあろうものか

 朝鮮王朝は儒教を国是とした儒教国家である。この王朝のもとで酒がおおいにもてはやされるのには、儒教とのかかわりも無視できないようだ。なぜなら、儒教はキリスト教や仏教と違って、酒に対して非常におおらかであったのである。例えば五経の一つ「礼記」は、「酒と食べ物は喜びを分かち合うもの。酒は老人を奉養し病を癒す効能を持つ」と書いている。漢書にいたっては「酒は薬中の長である。楽しき所にあらねばならぬ。酒こそ天が下されたもっとも麗しき賜物である」と飲酒を勧めている。

 さらに朝鮮の儒教は、朱子性理学の祖朱熹が大酒飲みで、しかも、好んで飲んだのが何とあのマッコルリであったから、これはこれは願ったり叶ったりである。彼は次の一首を残している。

 濁酒三杯に豪気は発し
 朗吟すれば祝融峰を下る

 もともと酒好きのうえに、孔子、孟子、朱子の教えとあれば、お墨付きをいただいたようなものであった。

 朝鮮人の飲酒の習慣はさらに儒教的祭祀を通してより深く根ざすことになる。

 儒教の祭りは祖先を敬って行う祭祀である。ひと昔前の祭祀は四代奉祀であった。父、祖父、曽祖父、高祖父を祭る儀式が、命日の日はもちろん、春夏秋冬の区切れ目に盛大に行われた。当然、酒を飲む機会が多くなり、一族の本家の祭主となると、ほとんど年中酒漬の状態になってしまうのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.2.23]