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山あいの村から−農と食を考える(17)

食は車を動かす燃料とは違う

 1日、日曜日「食の祭典」という催しを行った。上山市内にある4つの組織、すなわち「農業大学運営部会」、「まちづくり塾」、「ゆうがく塾」、「食生活改善協議会」の共催によるものである。

 不肖私、農業大学運営部会の会長の任にあるゆえ、この催しの実行委員長の役目を務めたが、先は盛況のうちに終わり、ほっとしている。祭のタイトルは「我家のごっつお(ごちそう)」と名付け、家庭の手づくり料理を出品し、展示のほかに試食のコーナーも設けたものである。

 当初の出品目標数は100点だったが、130品ほど集まり、ほかに試食用のものも多く出してくれて参集した人も350人を越えるといった盛況ぶりだった。

 参集者には昼食におにぎりと、山形名物の納豆汁を振るまったが、これにひき寄せる人の行列には驚くものがあった。この食べ物が余るほどの豊富な時代に、素朴な青菜漬けの葉っぱを巻いたおにぎりに、よくもこのようにありつこうとする人がいるものだと、企画した者としては嬉しさの反面、おかしくもあった。

 市内の農家には、古くから伝わる煮物や漬物、それに加工した菓子や団子など珍しいものがたくさんある。それを自らが見直し、自分で食べようとするだけでなく、温泉旅館の客にも売り出すことができないものかというのがこの催しの狙いである。つまり「地物」そして「手作り」の価値を再考し、くらしのインスタント化を是正しようというものだ。この狙いや目的がどれほど深く理解され認識されたかは、まだわからないが、しかし多くの人が「なにか」をしたい、「しなければ」と漠然とではあるが、求めていることがこの催しにもよく現れていて、尻を叩かれている思いだった。

 さて、私の出し物はといえば「鉈切大根の狸森鍋」と名づけたものである。これを見てくれて、まずその名の「鉈」という字を読めない人が多くいるのには笑えた。もはや農家の人といえども、鉈の現物すら見たことがないのではないかと思われたからである。

 鉈で大根をそぐと、細かい傷が入るので味がよく滲みておいしく煮える。こうした煮方は私が子どもの頃にはどこの家庭でもよく行っていたものだが、私の思いに深く残っているのはそればかりではない。冬、炭焼き小屋で煮て食べた大根汁だ。炭焼き小屋には「居小屋」と称して、昼食をとるいろりがつくられてある。そのいろりに鍋をかけて鉈で切った大根と、馬鈴薯を味噌で味付けして煮るのである。そしてそれには野兎のガラを使う。そのガラも鉈の背の方でたたきつぶす。それを木炭のくず、呼び名は「小炭」といって、商品にならないものを使い、半日もの時間をかけて弱火で煮る。私はそのおいしかったことを忘れずに出品する気になったのだ。

 しかし、残念なことに、今は肝心の野兎の骨はない。それで今風にぜいたくなものに改良した。すなわち、大根と馬鈴薯に加え、人参とごぼう、ネギも加え、兎の骨の代わりに豚肉を使った。味つけには味噌に加え、酒粕とニンニクをすり合わせたものにし、さらに豆腐も入れて煮込んだのである。すると展示している室がニンニクの香りがプンプンにおって、一時はどうすべきかと迷ったが、かえって珍しそうにそこに人が集まり、おしかりもなくことがすんでほっとした。また見にこられた市長は、この「鉈切大根の狸森鍋」をおかわりして食べた、という報告を私は受けた。およそ市長などといった要職にある方は、こんな鍋など食べる機会がないものだから、きっとうまかったに違いない。

 実は私も、一流といわれるホテルのレストランや、高級料亭での食事にあずかったことがないではない。けれど、50数年前に炭焼小屋の居小屋で食べた、鉈切大根を兎の骨で煮込んだもの以上にうまいと思って食べたものはない。そして、それはけっして腹の具合や舌が今と違っていたからなどではないぞ、と自信をもつのである。

 私はこの「食の祭典」なるものに関わる中で、その材料を生産する農業とは、いったい何であるかを改めて思いめぐらしていた。ともすると、人の命を守る食材を、お上といわれるところにいる人たちは、単なる車を動かす燃料のごとくと同じにしか考えてはしないのではないか、などである。もちろん人間の身体を保ち、働くことのためには、ガソリンと同じようなエネルギーがいる。しかし、それを単なる電力や石油と同じエネルギーだと考えて、安価なものであればよいなどと、どこかの国から輸入するとすれば大まちがいだ。さらにそれの輸入によって、工業製品が輸出できて国益となるなどと、人間の命を機械と同じようにしか考えていないとしたら、とんでもないまちがいなのだ。

 このたびの「食の祭典」には、そうしたことへの農民の抵抗の心が理屈ではなしに、事実と実際の手作りの中に熱く現れていて、すごく楽しく深い意義を感じた。

 食は人の命の根元であることはいうまでもない。しかも、食は人の「心」そのものでもあるのだ。どんな食材で誰がどのようにしてつくったかによって、身だけでなく心をもよくも悪くも育むものなのである。この食の祭典には、そうした「農」の根幹を示す百姓の姿が現れていてたくましかった。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2004.2.26]