top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 記者・崔恩喜

 崔恩喜は、今から約80年前言論界に進出した草創期の女性記者であり、生涯を女性の地位向上と歴史を記録する執筆活動に捧げた女性である。

 彼女は、1902年(戸籍上では1904年)黄海道白川の教育者の家庭に生まれた。小学校に入学する年、朝鮮は日本の植民地に転落した。彼女は憂国の志士であった父の思想的影響を強く受けながら成長する。国の将来を思い学校を建設、日章旗を「マンチャンギ」(日本が滅びる願いを込めて)と名付けて呼んだ父は、幼くも聡明であった娘に「国に役立つ人材になれ」と期待をかけたという。

 1914年、海州の懿貞女子学校に入学した彼女は、教務主任で、歴史を教えるロ・ソンヒョンの勧めで秘密学習会に参加、幸州山城での権慄将軍や女性たちの闘い、それからイギリス軍によって火刑に処せられたフランスのジャンヌ・ダルクなどについても学ぶ。

 懿貞女子学校を首席で卒業した彼女は、ソウルの京城女高普に入学、朴熙道(独立宣言書を作成した33人の中の1人)の秘密サークルに参加、3年のとき3.1独立運動が起きるや全校生徒300余名の先頭に立ちデモに参加、拘留処分を受ける。

 24日ぶりに故郷白川に帰ってきた彼女だが、再びデモを主導、今度は懲役6カ月、執行猶予2年、後に特赦(英親王と日本の皇族梨本宮の娘方子との結婚による)を受けて復権した。

 この間1919年冬、彼女は父の残してくれた遺産で海州に「新興女子商会」という婦人服販売店を開いた。女性も経済的な自立が必要だという父の遺志によるものであったが、これは彼女の大胆な行動力と手腕を見せてくれる一例である。しかし翌年、独立運動を支援する新聞、秘密書類が警察に発覚、店を閉めざるを得なくなった。

助産料取り立て

 1921年、彼女は日本留学へと向かった。留学中も彼女は終始要注意人物として監視される身であった。

 1924年、日本大学3年の夏休みのことであった。白川の家に帰省していた彼女のところに1通の電報が突如舞いこんできた。「朝鮮日報の記者として抜擢する」という通知であった。

 当時、朝鮮日報(1920.3.5創刊)社は新役員を迎え一大改革を計画、婦人記者の登用もその一環であった。この抜擢は、彼女の先輩で産婦人科医であった許英粛(李光洙の妻)の助産料を彼女が取り立てたことからはじまった。

 金持ちでありながら助産料を払わない男を相手に、1日掛かりで助産料を取り立てた彼女の度胸と手腕を高く買った李光洙の推薦によるものだった。

 こうして彼女は、女性記者第1号ではないけれど(女性記者第1号は李珏m、毎日申報、1920)、民間日刊新聞の女性記者第1号としてスタートした。

啓蒙活動

 彼女はまず「婦人見学団」を組織、それを新聞にも載せ女性啓蒙に力を尽くした。時には妓生、ヘンナン(女中部屋)に住む下女に変装して冷遇される女性たちの生活を探訪する一方、新聞に家庭欄を設け新女性26人を紹介するなど啓蒙活動を活発に展開した。

 彼女はまた無線電話公開放送テストアナウンサー第1号、飛行士同乗記者第1号としても選ばれた。

 それから留学時代からの友人劉英俊、黄信徳らと共に1927年、槿友会を発起、活動した。

 1930年結婚したが、1932年肋膜炎を患い退職、1942年には夫が急死、40歳で3人の子どもを持つ未亡人となった。

 解放とともに彼女は南で女性校長の登用、衛生保健の向上、オモニの日制定など社会活動を展開した。特に女性抗争史といわれる「祖国を取り戻すまで」(1973)をはじめ「女性前進70年」(1980)など1984年に他界するまで膨大な女性関連著書を執筆、歴史の生き証人としての役目を果たした。

 女性の権利は女性自らが取り戻すべき―そのためにまっしぐらに前進、実践した猛烈女性、崔恩喜の顔がまばゆく映る。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※崔恩喜(1902〜1984) 黄海道白川の出身。懿貞女子学校、京城女高普をへて日本の一進英語学校(*あて字)、日本女子大学、早稲田大学などで学ぶ。1924年、朝鮮日報記者として抜擢。「槿友会」創設にも関わる。解放後、女性の地位向上のため社会活動を活発に展開。著書に「祖国を取り戻すまで」、「女性前進70年」など多数。

[朝鮮新報 2004.3.2]