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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 横山正太郎

 横山正太郎(1843〜1870)の名と業績を知る人は日本人の中でも極めて限られている。しかし、明治初期の征韓論狂熱と関連しては、征韓論反対を政府に建言し、割腹して果てるという壮烈な死を選んだ人として、明治征韓論史中、逸すべからざる人物である。

 正太郎は薩摩藩士森喜右門有恕の4男で、母は阿里と言った。森家は代々島津氏に仕えた家柄で、この森家の5男坊が有名な森有礼である。

 正太郎は、学問の精励と人となりを見込まれ、15歳の時、薩摩藩儒横山安容の家を継ぐ。そして、小姓として藩主の側に仕えることになるが、ここでも人物の誠実さを買われ、島津久光の第5子、悦之助(後、忠経)の輔傳に挙げられる。藩主忠義の父久光は藩主後見で「国父」の尊称を受け国政を取りしきっていた。慶応3(1867)年春、久光は、松平慶永、山内豊信、伊達宗城などと、徳川慶喜(15代将軍)と会し国事を議することになった際、正太郎はこの久光上京に側近として同行を許されるほどの信任を得ている。維新後、正太郎は久光に説いて、公子の藩外遊学をすすめ、佐賀や山口に赴いたが、明治2年12月、山口で起った「脱隊兵事件」に遭遇する。この事件は山口藩(長州)が、それまでの諸隊を解散し、新たに常備4個大隊を編成したことに不満を持った奇兵隊、遊撃隊などの兵士が起した藩政府に対する暴動事件である。横山正太郎は脱隊兵側の言い分に同情してか、断りなく帰国して、この事件を報告する。怒ったのは島津久光である。正太郎はたちまち役を免ぜられ、公職を追われることになる。

 ここで彼は心機一転して、学問に専心することを決心した。そのためには善き師につくことである。彼は京都の春日潜菴か、または東京の田口文蔵の塾に入ることを望んだ。
 春日潜菴は公卿久我家の諸大夫出身である。はじめ朱子学を学び、のち陽明学を修めた。

 正太郎は京都に行き同郷の折田要蔵の家に食客となって、春日門への入門を計ったが果さず、東京に行き、田口文蔵の塾に入ることになる。そして、その一週間後に、正太郎は、時の政策を批判する10個条を記した建白書と、別封の征韓論反対の建白書を添えて集議院前に置き、近くの津軽藩邸裏門前で割腹して果てたのである。いわゆる「時弊十条」建白書は「旧幕の悪弊、暗に新政に遷り」大臣はじめ大小の官員は、虚飾を張り、万民の苦しい実情を無視している、などとしたものだが、別紙の非征韓論建白書内容は次のようなものである。

 「朝鮮征討の議、草莽(民間)間、盛んに主張する由、畢竟、皇国の萎靡不振を慨歎する余り、斯く憤激論を発すと見えたり。然りと雖も、兵を起すには、名あり、義あり。殊に海外に対しては、一度名義を失するに至っては、たとひ大勝利を得るとも、天下万世の誹謗(そしり、批判)を免るべからず、〜只朝鮮を小国と見侮どり、妄に無名の師を興し、万一蹉跌あらば、天下の億兆に何と云はん。〜今、佐田某(白茅)輩云う所の如き、朝鮮を掌中に運さんとす。己を欺き人を欺き、国を以て戯とするは、是等の言を云うなるべし」

 この時期、非征韓論の文を発したのは、横山正太郎だけでない。「日本外交文書」明治2年9月の項に、外務省権少丞の宮本小一郎の意見書がある。宮本は「方今朝鮮の事を論ずるもの曰く、王政復古し、大号令天皇陛下より出る上は、朝鮮は古昔の如く属国となし、藩臣の礼を執らせねばならぬ也。〜是れは彼の国体を知らぬ論なり」と書き、朝鮮・日本関係を古代三国時代、足利時代の倭寇や秀吉、徳川時代などを歴史的に説く。「我をして朝鮮人ならしめば、左の如く論ぜん」として、朝鮮の立場に立って日本への反論を加えている。宮本の論で紹介すべきは多々あるが、紙数が許されないので、次に田山正中なる人物の反征韓論に触れてみたい。田山は当時の征韓論を5点に分けて、その非なるを批判し、「目前の強敵(ロシア)を避るは怯なり、無事の弱国(朝鮮)を伐つは不義なり」と云う。そして「伝へ聞く、朝鮮の人心、厚く信を好み、固く義を守り、その気質の美なる、亜細亜(アジア)洲中の秀絶なりと」(白茅の「征韓評論」所収)とその連帯意識を表白している。

 また、横山正太郎の弟、森有礼は後に第一次伊藤内閣に文相として入閣し、暗殺されるが、江華島事件の処理のため、駐清公使に任命された時、最終的には国益外交となるが、当初は「朝鮮は一の独立国にして、外交或は旧交を拒むは、その権利の内のことにして、江華島の変に至っては、畢竟暴に対する暴を以てせりと云ひ帰して、両条、倶に公法(国際法)を以て論ずれば、特(ひと)り朝鮮のみを曲なりと裁すべき者に非」(「近代日鮮関係の研究」上、田保橋潔)ずとの認識を持っていたのである。

 ともあれ、横山正太郎の反征韓論割腹死は俗流の世論に流されない良識と気骨ある日本人の存在を示したものとして、当時の日本社会に大きな衝撃を与えたことは事実である。(琴秉洞、朝・日近代史研究)

[朝鮮新報 2004.3.3]